HODGE'S PARROT

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形態とは…ウィトルウィウスから上野千鶴子まで



五十嵐太郎の『現代建築に関する16章 〈空間、時間、そして世界〉』では、その冒頭、建築に関するキーワードとしての〈形態〉と〈機能〉の関係について、これまで語られてきた「まとめ」からスタートする。

シカゴ派の代表的建築家であるルイス・サリヴァン(Louis Sullivan、1856 - 1924)は「形態は機能に従う」(Form follows function)というテーゼを語った──このモダニストアフォリズムが後の議論のすべての原初となった。これは〈美〉のために〈形(態)〉があるのではなく、〈機能〉が〈形態〉を決定する。そしてその結果として、〈美〉が生じる、という考え方である。もっともこのような思考それ自体は「用・強・美」を唱えた古代ローマ時代のウィトルウィウスの最古の建築理論書である『建築書』まで遡及することができるのだが。
この形態と機能をめぐる「関数」(function)は様々なバリエーションを生み出した。例えば、ピーター・ブレイク(Peter Blake、1920−2006)は「形態は失敗に従う」(Forms follows fiasco)と唱え、一方、ミシェル・ドゥネは「形態はフィクション(虚構)に従う」(Forms follows fiction)と記した──モダニズムではありえない非常にポストモダンな手法をあらわしていると五十嵐はつけ加える。ここまでで興味を惹くのは、このようなテーゼがそれぞれFで始まる3つの言葉から構成され、つまりどれもFFFになっていることだ*1
議論は続く。著者の五十嵐氏はこれに対応させて「形態はメタフィクションに従う」(Forms follows metafiction)という言葉を考案した──これはダニエル・リベスキンドのベルリンにある『ユダヤ博物館』*2を論じたときに使用したもので、フィクションとノン・フィクションを中吊りにしたようなプロットから幾何学的なスキームが決定されることを意味しているという。
そして社会学者でありフェミニスト上野千鶴子は「形態は規範に従う」という考え方を示した。とくに住宅に関する議論の中で、本来、それぞれの家族がどんな空間に住みたいかという欲望や機能よりも、むしろ家族とはこういうものであるという規範に縛れている──機能主義よりも規範こそが住宅の姿を決定しているのではないか、と*3

上野は、建築家の山本理顕と論争をおこなったときに、彼を空間帝国主義だと批判しました*4。建築家というのは、空間の形式が人びとのふるまいを決定し、社会の問題もすべて解決できると信じている、と。また家族像と空間の関係を一対一で提供できると思っている。しかし、それは空間帝国主義だと言うわけです。上野にすれば、社会学的なフィールドワークをおこなうと、現実には、ハコとそこでのふるまいはズレている。同じ屋根の下に住んでいても、同じ家族だと心のなかでは思っていなかったり、逆に遠隔地に暮らしていても同じ家族だという意識をもつことがあったりする。つまり、形態と用途、あるいは機能はズレているのだという。



五十嵐太郎『現代建築に関する16章 〈空間、時間、そして世界〉』 p.13-14 *5

そういった批判に対し、しかし山本理顕はそれを甘んじて受け入れると述べる──そうしないと、建築家としての根拠がなくなってしまうからである。

スイス出身の建築家ベルナール・チュミ*6も上野と近い立場を表明する──形態と機能はそもそも断絶しているのだ、それらは切り離されているのだ、と。

形態は機能に従うという言葉は、つくり手の視点が強いのにたいし、チュミは使う人の側に近づいている。計画者から使用者へのシフトは、60年代の学生運動に強い影響を受けた彼らしい発想です。じっさい、長いあいだ建物を使っていると、当初想定されないような事態はいくらでも発生します。そうすると、モダニズムのように形態と機能をあまり一義的に固定して考えるのは、理想的であるけれど、現実的ではありません。
ただし、チュミは、なんにでも使える多目的ホールがいいといっているわけでもない。それよりも、ある機能を想定したものが、別の機能にズレるときに発生する事態に関心がある。チュミは、空間においてイベント、すなわち事件が生起することに興味をもっています。



『現代建築に関する16章 〈空間、時間、そして世界〉』 p.15-16

「あひる」と「装飾された小屋」
ポストモダンの建築家ロバート・ヴェンチューリはその著書『ラスベガス』(Learning from Las Vegas: the Forgotten Symbolism of Architectural Form)*7で「あひる」と「装飾された小屋」というモデル提示する。

Robert Venturi and Denise Scott Brown: Learning from Las Vegas: SuperCrit #2

Robert Venturi and Denise Scott Brown: Learning from Las Vegas: SuperCrit #2

Robert Venturi - duck vs decorated shed


「あひる」というのは、その建物に要求された機能をそのまま字義通りに形態化したもの──たとえばコーヒーカップの形をした喫茶店のようなものを示す。実際にアメリカにはアヒルの形をしたロードサイドショップが存在している。車社会が到来したこと、そして大衆化と商業化が結びついて、こうした「あひる」タイプの店舗が急増した、と五十嵐氏は述べる。

もっとも、ヴェンチューリの「あひる」は、たんに安易な商業建築を揶揄しただけではなくて、じつはモダニズムへの批判も射程に入れています。なぜなら、お店の内容をそのままかたちにしているわけですから、まさに「形態は機能に従う」の究極的な姿が「あひる」になるからです。つまり、これはモダニズムへのすごい当てこすりなのです。



『現代建築に関する16章 〈空間、時間、そして世界〉』 p.17

Big Duck


「装飾された小屋」は、ヴェンチェーリがラスベガスのホテルやカジノを調査・フィールドワークした結果、発見された概念である。簡単に言えば(もともと「単純な」発想なのだが)、看板が切り離された建築物のことだ──「このような」建物が「ここに」ありますよ、というメッセージを発信する機能=看板が建物本体と独立分離している。
「あひる」の場合は、サイン機能(sign)と造形原理が一体化していた。その一方で「装飾された小屋」では、サイン機能を切り離すことによって、建物は「その影響」を受けずに純粋に機能的な四角い箱型のままでいいことになる。

やはり外部と内部を一致させようとした近代建築に対する痛烈な批判です。形態をサイン機能に従属させた「あひる」は、けっきょく、形を歪ませて、機能主義的ではなくなっている。奇抜なかたちで、使いにくいものになってしまう。もちろん、高速で走る自動車にたいして、ここに店がありますよというサイン機能は必要です。しかし、それをあまりに肥大化させて、本体の形をおかしくしてしまうと、本末転倒です。使い勝手がおかしなことになっている。その意味で「装飾された小屋」というのは、サイン機能と、空間としての機能を分けることで、そうした歪をなくしています。しかも、効率的に建築のメッセージをドライバーに伝える。より洗練されたコニュニケーションの建築として評価されるわけです。



『現代建築に関する16章 〈空間、時間、そして世界〉』 p.18


ただね……。なぜモダニズム建築を批判=揶揄するためにヴェンチェーリは「あひる」という形態をチョイスしたのだろう──それはやはり彼が「あひる」という形態が、何かしら、予め、揶揄の対象となることを見越していたからではないか。つまり「あひる」という形態がそれ自体で揶揄・嘲笑になる、という共通認識に従ったからではないか。つまり、そういった形態を揶揄するという集団、そういった形態が揶揄になってしまう共同体の規範に上手く適用したのではないか。ヴェンチェーリの揶揄の呼びかけに対して、それに従順に応答するグループが、彼には想定されていたのではないか。つまり取り巻きが。政治的な効果が。ちょうど「比喩表現」が、その比喩を語る人は、自分は自分の所属している(言語)共同体のメンバーであることを自認して、そしてその共同体を代表して──その権威に阿って──「ね、そうでしょう?」って相手に同意を迫る行為であるみたいな*8。そのことによって、つまり批判的文脈で持ち出された「あひる」という存在は──そのような文脈の中でしか言及されない「あひる」という存在は──再び、揶揄・嘲笑の対象として追認され、そういった意味をその存在のただ中に、再び、擦り付けられてしまうことにはならないのだろうか。

よく指摘されることだが、純粋に事実確認的な言表など存在しない。なんらかの「初歩的な」遂行的価値がそこではつねに前提されている。「私は君に言う」、「私はあなたがたに〜と言う」、「私はあなたがたに〜と断言する、あるいは約束する──私は何かを言いたい、あるいは私の文の最後まで到達したい」、「私(の言うこと)を聴いてください」、「私(の言うこと)を信じてください」、「私は本当のことを言っているのです」等々。たとえ、折り返しの読み方のうち、事実確認の単なる断言(幾人かの友、複数の友、一人より多くの友を持つ者、そうした者には、いかなる友もいない)に限定するとしても、この断言は差し向けられていなければならなかった、また語りかけがなんらかの遂行的力を含んでいなければならなかったのだ。



ジャック・デリダ『友愛のポリティックス』(みすず書房) 下巻p.34 *9


「私は建築における多様性と対立性とを好む」*10

パリの13区にフランス国立図書館(Bibliothèque Nationale de France)がある。設計はドミニク・ペロー(Dominique Perrault、b.1953)。ベルシー公園側から「サイン」=標識を手掛かりにセーヌ川シモーヌ・ド・ボーヴォワール橋で渡っていくと、そこにあった。

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Passerelle Simone-de-Beauvoir
Bibliothèque Nationale de France

まるで「本を開いて立てたような」L字型の形態、ガラス張りのモダニズム建築──まさに図書館という機能に従った形態。美しい。
Bibliothèque Nationale de France
Bibliothèque Nationale de France
Bibliothèque Nationale de France

新しいビブリオテーク建設にあたっては、複数の建築に分散していた部門をすべて入居させあらゆる分野の知識を集めること、あらゆる人々が立ち寄りやすいようにすること、当時の先端の通信技術を使用することで遠隔地からでもデータにアクセスできるようにすること、国内や欧州の他の図書館とも連携することが意図された。1989年7月、244チームが参加した建築設計競技(コンペ)の結果、イギリスのフューチャー・システムズ、イギリスのジェームズ・スターリング、フランスのドミニク・ペロー、フランスのフィリップ・シェとジャン・ピエール・モレルの4案が優秀賞、ジャン・ヌーヴェル案とレム・コールハース案が特別賞となった。英仏対決の様相を呈したコンペは、ミッテラン大統領の採決によりドミニク・ペローの案が採用される結果となった。美術におけるミニマリズムの影響を強く受けたペローの設計案の勝利は、装飾の復活や過去の建築様式の引用などにぎやかな外観を呈したポストモダン建築の流行を終わらせるインパクトがあった。



ビブリオテーク・ナショナルウィキペディア

*1:もちろん建築学科の教員・学生たちが探偵として活躍する森博嗣推理小説すべてがFになる』を思い浮かべるのだが。

*2:Jüdisches Museum Berlin http://www.juedisches-museum-berlin.de/

*3:あるいは吉村靖孝の『超合法建築図鑑』を見ればもっと直接的に「形態は法規に従う」とも言えるだろう。

超合法建築図鑑 (建築文化シナジー)

超合法建築図鑑 (建築文化シナジー)

*4:上野千鶴子「プライベート/コモン/パブリック 関係と空間の再編成に向けて」 http://www.jia.or.jp/activity/taikai/2001kanazawa/ueno.htm

*5:

*6:Bernard Tschumi http://www.tschumi.com/

*7:

ラスベガス (SD選書 143)

ラスベガス (SD選書 143)

*8:道家洋はダイアナ・アグレストの『圏外からの建築 映画・写真・鏡・身体』の書評で興味深い指摘をしていた。アグレストの議論は構造主義言語学の概念などを援用し、例えば建築でいう「形態と機能」という枠組み自体がイデオロギー的な「意味の再生産」に組すると指弾する──そのような「意味」を支えるシステムこそを問題化すべきなのだ、と。道家は、映画をはじめとする「他の文化システム」と「建築」を関連付けることによって硬化した建築の議論を活性化させる一定の役割を果たした、とアグレストの問題提起を評価しつつも、しかし、その思考の枠組みを拡げるという営為自体が「通俗化」の一途をたどってきたのではないかという危惧を述べる。アグレストがアルチュセールを執拗に参照していることからもわかるように、その営為は政治的な含み──つまり左派的色彩の濃い言説として述べられにもかかわらず、しかしそれによって「イデオロギー」を批判したその後に、あたかもそれが「商品」として即物的に流通するかのように、脱色され消耗してしまう逆説に陥っているのではないか、と。”新しい建築、新しい建築の意味、新しい言説、これらは流行ものの商品リストと似ていなくもない。右にせよ左にせよ、表面上の政治的立場が必ずしも有効にならない(と言うかはっきり言ってどうでもいい)ような状態では、建築の言説はときに、緻密で難解な議論の淵で永遠のゲームを楽しんでいるかのようにも見え、いかに知的装いを保とうとも隣のアニメサークルと区別がつかなくなってしまう。となると、もちろん言説をつくる人もアニメをつくる人も建築をつくる人も、その創造力や想像力の領域ではそれぞれの固有性が主張されてしかるべきだしおとしめられてもならないが、そこに価値の序列をつけうるとしても、それはもう「趣味」の問題になってしまう。その趣味の総体を「文化」と言いたくなるが、だとすれば建築(の言説)は、アグレストの目論見どおりに、より広く「文化」に取り込まれたわけである──でもそれは「意味の再生産」ではないだろうか”(道家洋「イデオロギー批判と文化的言説」、『建築の書物/都市の書物』所収、INAX出版

READINGS〈1〉建築の書物・都市の書物 (10+1 Series)

READINGS〈1〉建築の書物・都市の書物 (10+1 Series)



もしアニメサークル/アニメ製作者と大学関係者らによる批判的言説が等しくゲームを楽しんでいるのならば、なぜ、大学関係者だけがそれによって体制から多大な「特権」を得ることができるのだろう。”ひとが本当に恐れているのは、自分の要求が完全に受け入れられることである(……)。そして、今日の「ラディカルな」学者も、これと同じ態度(やるならやってみろという態度)に出られたら、パニックに陥るのではないだろうか。ここにおいて、「現実主義でいこう、不可能なことを要求しよう」という68年のモットーは、冷笑的な、悪意にみちた意味を新たに獲得し、その真実を露わににするといえるかもしれない。「現実主義でいこう、われわれ左翼学者は、体制が与えてくれる特権をすべて享受しながら、外面的には批判的でありたいのだ。そのために、体制に対して不可能な要求をなげつけよう。そうした要求がみたされないことは、みな分っている。つまり、実際には何も変わらず、われわれがこれまで通り特権化されたままでいられることは確かなのだ」。金融犯罪に手を染めている企業を告発したひとは、暗殺される危険に身をさらす。それに対し、同じ企業に、グローバル資本主義とポスト植民地主義における雑種的アイデンティティとの関係を研究するので金を出してくれないかと頼んだひとは、数十万ドルの資金を手にする機会にめぐまれているのだ。”(スラヴォイ・ジジェク『操り人形と小人』より http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20090628/p2

*9:

友愛のポリティックス II

友愛のポリティックス II

*10:ロバート・ヴェンチューリ『建築の対立性と多様性』より

建築の多様性と対立性 (SD選書 (174))

建築の多様性と対立性 (SD選書 (174))



ヴェンチューリは「純粋なもの」より「混成品」が好きだと述べるが、しかし、そういった「混成品」は、本当に多様性を帯びた「混成」なのだろうか。多様性を謳いながら、それを自負しながら、そうでないものを批判しながら、実際は──例えば、大学関係者、大卒者、そして「大卒程度」という表現によって陰に陽に排除をもたらしている組織・集団があるのではないか。大学関係者からなるグループ、それこそが「純粋なもの」を構成しているのではないか──多様な「混成」を装いながら。