HODGE'S PARROT

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空気をコントロールすること



2005年、デンマークの新聞『ユランズ・ポステン』がイスラム教の預言者ムハンマドを風刺した漫画を掲載した。これに対し、イスラム諸国から激しい抗議が巻き起こった。大規模なデモ、暴力的な騒動、重大な外交問題に発展した。

この風刺画はムハンマドの12のカリカチュアからなり、それらの中にはターバンが爆弾に模されているなど、イスラーム過激派を連想させるものがあった。

この風刺画掲載に至る経緯は次のようなものである。作家・ジャーナリストのカーレ・ブリュイトゲンがムハンマドの生涯を扱う児童向けの本を書いた際、この本への挿絵の執筆を依頼されたイラストレーターたちは偶像崇拝が禁じられているイスラム教徒からの反発を恐れ誘いを断った。ブリュイトゲンは3人に断られ、1人に「匿名でなら描く」と返答された。ブリュイトゲンの話は2005年9月17日にポリティケン紙によって報じられ、言論の自由を誇りとする一方、増加するムスリム移民とその文化に警戒を隠さないデンマーク国内において、自己検閲をめぐる議論を起こした。この経緯を聞いたユランズ・ポステンの編集者はイスラム教社会における自己検閲を巡る問題を提起しようと考え、ムハンマドの風刺画の執筆を複数の風刺画作家に依頼、12名がそれに応じて問題の漫画が紙面に掲載された。



ムハンマド風刺漫画掲載問題 [ウィキペディア]

スラヴォイ・ジジェクは『暴力』においてこのムハンマド風刺漫画問題に言及、独特の分析をしている。まずジジェクが銘記すべきだとしたのは──無視すべきではないと指摘したのは──この北欧デンマーク紙が掲載した漫画に傷つけられたと感じ、それに反発するデモを行った大多数の人々はこの漫画を実際に見たことさえなかった、という事実である。この事実こそがグローバリズムの持つ一つの側面なのである、と。

「グローバル・インフォメーション・ヴィレッジ」は、デンマークの無名の新聞に載せられたものが、遠く離れたムスリムの国々において暴力的な騒ぎを引き起こすといった事態を生み出す条件なのである。デンマークと、シリア、パキスタン、エジプト、イラクレバノンインドネシアとは、まるで実際に隣り合った国々であるかのようだ。グローバリゼーションを、全地球が統一されたコミュニケーション空間、全人類をひとつにまとめる空間になる機会としてとらえるひとたちは、多くの場合、彼らの前提におけるこの裏の面(ダークサイド)に気づかない。〈隣人〉とは、フロイトもうすうす感じていたように、なによりもまず、モノ、トラウマ的な侵入者であり、つまりは、近づけすぎるとわれわれを困らせ、われわれの生活の調和を乱す、異なった生活様式(あるいは、その社会的行為や儀式において具体化された異なった享楽)をもった何者かであるのだから、ここからは、この厄介な侵入者を取り除くための攻撃的な反応が生まれる可能性があるのだ。



スラヴォイ・ジジェク『暴力 6つの斜めからの省察』(中山徹 訳、青土社) p.79 *1

ジジェクはペーター・スローターダイクの主張に同意する──すなわち「コミュニケーションの増大は、なによりも軋轢の増大を意味する」。だから、「相互理解」の態度は、「たがいにじゃまにならないようにする」態度によって、適切な距離の確保によって、新たな「思慮ぶかい作法」の実行によって補われなければならない、と。

ムスリムの群集は、ムハンマドの風刺漫画そのものに反応したのではない。群集は、彼らが風刺漫画の背後に感じとった精神的姿勢、つまりは、西洋という複雑な形象あるいはイメージに反応したのである。エドワード・サイードの「オリエンタリズム」に対照させて「オクシデンタリズム」という言葉を提示するひとたちは、ある点において正しい。ムスリム諸国からわれわれが得るのは、西洋に関するある特定のイデオロギー的ヴィジョンである。このヴィジョンは、オリエントの現実をゆがめるオリエンタリストのヴィジョンにおとらず、西洋の現実をゆがめている──むろんゆがめ方は異なるが。
ここで暴力的かつ突発的に現れたのは、西洋帝国主義、神を忘れた物質主義、快楽主義、パレスティナ人の苦しみといったシンボル、イメージ、態度からなる織物であり、それがデンマークの風刺漫画に結びつけられたのである。憎悪の矛先が風刺漫画から国としてのデンマーク、スカンディナヴィア、ヨーロッパ、西洋全体へと拡大したのは、そのためである。ほとばしり出る屈辱感と欲求不満は、風刺漫画へと凝縮された。これは肝に銘じておく必要があるのだが、この凝縮は、ある特定の象徴的世界の構築と押し付け、すなわち、言語がもたらす基本的現実である。



『暴力』 p.80-81

ここでジジェクが触れている「オクシデンタリズム」については、『フォーリン・アフェアーズ』による解説がある。例えば、それは単なる「反米主義」などと区別されるもので、

オクシデンタリズムとは、もっと古い時代からある、西洋のことを、冷酷でコスモポリタン的で個人主義的な心なき世界とみなす考えのことだ。西洋世界は金儲けと快適さを探し求めることに血道を上げるばかりで、他の固有の社会に有毒な影響を与えるという西洋へのイメージともいえるだろう。もっとも、私がここで指摘しているのは幻想であり、現実に存在する文明の衝突とは違う。オクシデンタリズムとは、自らの社会に深く根ざした固有の価値観に対して西洋が毒をまき散らすという幻想のことだ。



オクシデンタリズム――敵の目に映る西洋の姿フォーリン・アフェアーズ・リポート]

ジャーナリストのブルマは「オクシデンタリズム」をテーマに行われた米外交問題評議会での討論会で、中東のオクシデンタリズムが特に危険なのは、イスラム主義者たちが西洋のことを、冷酷で、合理主義的で、人の心をもたない「自分たちの(文化に根ざした)固有の社会に毒をまき散らす存在」とみなし、「西洋を根絶すべきだと考え」ていることだと指摘している。

 ブルマは「オクシデンタリズムとは、状況に対する普遍的な解決法があると主張する大きな力をもつ思想に対して特定のコミュニティーが屈辱感をもつことによって生じる感情」であると定義しているが、この認識は政治学者ジョン・アイケンベリーによるアメリカ帝国論「アメリカ帝国という幻想」を読む際のよい指針にもなるだろう。


オクシデンタリズムとは何かフォーリン・アフェアーズ・リポート]

現実と幻想/空想の間に横たわる歪み。言語は、名指しされた物を単純化し、単一の特徴に還元する。事物の象徴化には暴力的なところがある──物の象徴化は物の殺害に等しい。スラヴォイ・ジジェクは「理性」(reason)と「人種」(race)が同じラテン語の語源(ratio)を持つことに注視し、言語は分割のもととなる最初で最大のものである、と述べる。つまり、われわれとわれわれの隣人が同じ通りで生活しながらも「異なった世界に生きる」(ことができる)のは、言語のためである──だから、これが意味するのは、言語は副次的な歪みではなく、あらゆる人間的暴力の究極の手段である、と。そこからジジェクユダヤ人虐殺について言及する。

虐殺の実行者にとって我慢ならない、腹の立つもの、つまり、彼らの反応の対象は、ユダヤ人のなまの現実ではなく、伝統のなかで構築され一般に流布している「ユダヤ人」というイメージ/形象である。ここでの盲点は、もちろん、一個人は、いかなる単純な仕方であっても現実のユダヤ人と反ユダヤ主義的なイメージとを区別できない、ということである。このイメージは、現実のユダヤ人に関するわたしの経験を重層的に決定するのであり、さらには、ユダヤ人が自分自身をどう経験するのかということにも影響するのである反ユダヤ主義者が通りで出会う現実のユダヤ人を「我慢ならない」存在にしているもの、反ユダヤ主義者がユダヤ人を攻撃するとき破壊しようとしているもの、反ユダヤ主義者の怒りが本当に標的にしているものは、この空想的次元である。

これと同じ原理は、あらゆる政治的な抗議活動にあてはまる。労働者が搾取に抗議するとき、その矛先は単純な現実に向けられているのではなく、言語によって意味づけられた現実の苦境の経験に向けられている。茫然とした現実それ自体は、けっして我慢ならないものではない。現実を我慢ならないものにするのは、言語、その象徴化作用である。だから、建物や車を焼き打ちしたり、ひとをリンチしたりする怒り狂った群衆について論じるときには、彼らが手にもっているプラカードと、彼らの行為を支え正当化する言葉を絶対に忘れてはならない。



『暴力』 p.87-88


ところで先にジジェクが言及したドイツの思想家ペーター・スローターダイク(Peter Sloterdijk、b.1947)であるが、建築関係の本──五十嵐太郎の『現代建築に関する16章』でもその名を目にし、そこで紹介されていたスローターダイクの独特の「観点」が強く印象に残っていた(やはりそこでもユダヤ人虐殺問題に触れていた)。
『現代建築に関する16章』で五十嵐はまず、レム・コールハースの「ジャンク・スペース」(Junkspace)という概念を解説する*2。これは近代化が遂行されたあげく、アメリカ的な資本主義が蔓延し、その「ジャンク・スペース」という残余物で世界が覆われる、という黙示録的な風景を描いている──まるで延々とつづくショッピング・モールのような世界である、と。「ジャンク・スペース」を成立させるものとして、資本主義の経済がもちろん必要なのであるが、コールハースは建築的な装置としてエスカレーターやエアコンなどの技術を挙げる*3

それまでの建築は基本的にフロアごとに切れていたのにたいし、エスカレーターがあれば、空間がスムーズに連続します。壁も固定されたものではなく、状況に応じて組み換えができるパーティションなのです。つまり、ジャンク・スペースのイメージは、空間が水平方向だけではなく、垂直方向にもズルズルとつながっているイメージなのです。
しかも、そこには外部がない。人工的な室内環境です。内部だけが漠然と広がっている。



五十嵐太郎の『現代建築に関する16章〈空間、時間、そして世界〉』(講談社現代新書) p.82 *4

さらにそこには「エアコン」という設備=装置が加わる。空間をつなげる「エスカレーター」に対し、「エアコン」は人工環境を生み出す──どんな暑い場所でも、どんなに寒い場所でも同じような建物が建設可能になる。エアコンによって、室内の環境を、その名のとおり、その内部の空気を完全にコントロールすることが可能になる。そこは閉じた内部空間となり、もはや外部の場所すら求めない。その中で満足してしまう、資本主義の楽園。
その「空気のコントロール」に関して、五十嵐は、スローターダイクの『空震*5に言及する。スローターダイクは1915年、第一次世界大戦においてドイツ軍が毒ガスの雲をはじめて使用してフランス軍に甚大な被害を与えた──空気の状況をコントロールすることによって相手を攻撃することに注目する。

それまで戦争というのは、直接的な身体を狙っていた。つまり、剣であろうと、銃や大砲であろうと、敵の身体に物理的なダメージを与えることが攻撃でした。ところが毒ガス雲というのは、身体ではなく、その身体の生命を支える環境そのものを標的としているところが決定的に新しい*6。すなわち、生命の条件というべき環境の方を変えてやると、相手が死んでしまう*7
もともと毒ガスは、最初から戦争兵器として開発されたわけではなく、害虫駆除のガスの製品デザインとして生まれたものです。しかし、よく知られているように、やがてユダヤ人の大量虐殺にも使われます。害虫駆除のガスがさらに純粋に機能主義的に使われ、しかも閉ざされた建築空間と一体化することで、人種を絶滅させる強制収容所が誕生するわけです。考えてみると、ジャンク・スペースの商業空間も、これと紙一重かもしれません。もしエアコンに毒ガスが混入されると、同じ機能を果たしてしまう。



『現代建築に関する16章〈空間、時間、そして世界〉』 p.84-85


関連エントリー

*1:

暴力 6つの斜めからの省察

暴力 6つの斜めからの省察

*2:Rem Koolhaas | Junkspace http://www.quotesque.net/junkspace/

*3:Interview with Rem Koolhaas, Index magazine http://www.indexmagazine.com/interviews/rem_koolhaas.shtml

*4:

*5:

空震―テロの源泉にて

空震―テロの源泉にて

*6:この「環境」の中に、身体に物理的なダメージを与えるのとは別に、言葉・言語によって人々に多大なダメージを与える(場合によっては死に至らしめる)暴力について考えている。差別語、ヘイトスピーチを「環境」に充満させ、殺すこと──人を苦しめ、絶望に至らしめ、自殺に追いこむこと……。「ある人」つまり特定の集団に属する人たちを殺すためにその人たちが住んでいる「環境」に差別を充満させること──それもコントロールである。例えばキャサリン・マッキノンが述べているように──”資料を使い権威をもって「ある人は劣等である」と言うことにより、地位構造と待遇の違いが作り出され現実化される。言葉とイメージにより、人びとが階級のどこに位置するかが示され、社会的階層は回避できない正当なものであることが示され、劣等感や優越感が生まれ、底辺の人に対してふるわれる暴力についての無関心が合理化され正当化される。意味を作り出すことにより、人びとの内面に、また人びとのあいだに、社会的優越感がつくられていく。それを壊すには、このような意味とその表現手段を壊していかなければならない。”(キャサリン・マッキノン『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』 (『Only Words』)、柿木和代 訳、明石書店 p.50 ) 

ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で

ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で

*7:”もしリンチの写真を撮るために黒人が実際にリンチされ、それが年間数十億ドル規模の産業になったとしたら、それらの写真は保護される言論になるだろうか? ここでの問題は、リンチが形式的に違法行為とされているかどうかではない。ポルノグラフィに関わる諸行為と同様に、法律上はリンチは違法行為だったが、実際には、リンチを禁止する特別な立法、すなわち公民権法が制定されるまではほとんど野放しだった。…。もし裁判所が、リンチはアフリカ系アメリカ人に関する一つの観点を効果的に表現しているにすぎないのであり、それは「思想」であって、その写真を毎年何十万枚も繰り返し大量に出版することが保護された言論であるという判決を下したとしたら、それはいったい何を意味しているのだろうか?”(キャサリン・マッキノン『女の生、男の法』、岩波書店 下巻 p.187-188) 

女の生、男の法(下)

女の生、男の法(下)