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サント=クロチルド教会とゴシック・リヴァイヴァル



以前、パリに行ったときに、かねてからの念願だったモンパルナス墓地にある、敬愛する作曲家セザール・フランク(César Franck、1822 - 1890)の墓を訪れた。6月、今度は、そのフランクが死の年まで教会オルガニストを務めていたサント・クロチルド教会(Basilique Sainte-Clotilde)へ行ってきた。
サント=クロチルド教会、パリ

サント=クロティルド教会はパリの7区にある──ナポレオンの墓があるアンヴァリットとオルセー美術館の真ん中ぐらいに位置している。ネオゴシック様式の荘厳な建築だ。中島智章の『パリ 名建築でたどる旅』によれば、サント・クロティルド聖堂は、フランツ・クリスティアン・ガウ(Franz Christian Gau、1790 - 1853)*1とテオド−ル・バリュー(Theodore Ballu、1817 - 1885)らにより設計、建設された。ゴシック建築のノートル・ダム大聖堂にも比す壮麗さを備えたパリ随一の歴史的建造物であるが*2、1857年竣工なので、パリ市内では比較的新しい教会堂なのであろう。

17世紀末から18世紀にかけて、それまで理想の古典古代として絶対の信仰の対象だった古代ギリシア・ローマ文明の価値が相対化されるなか、その読み直しが思想的な、あるいは考古学的な見地から行われた。
この動きを新古典主義というが、そもそも、古典古代の価値が相対化されたのならば、それ以外の時代に理想を見出してもよいのではないかという思想が芽生えてくる。また、異教の古典古代に対してキリスト教のヨーロッパのほうが優越しているのではないかという議論も、当然のことながらなされるようになった。
ゴシック・リヴァイヴァルの動きはこのような傾向のなかから生まれた。



中島智章『パリ 名建築でたどる旅』(河出書房新社) p.104 *3

サント=クロティルド教会、パリ

サント=クロチルド教会、パリ

サント・クロチルド聖堂、パリ

古典主義時代には「ゴート人の建築」*4として蔑まされてきたゴシック建築が再評価され、復活してくる──何よりも中世の、敬虔なるキリスト教信仰の栄光を体現する建築として。フランス革命によって、アンシャン・レジームにつながるものとして略奪、破壊された教会建築物*5の修復と軌を一にして。ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク(Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc、1814 -1879)は『中世建築事典』や『建築講和』を著して建築理論家として、そしてピエルフォン城塞や城塞都市カルカソンヌサン・ドニ教会堂、パリのノートル・ダム大聖堂の修復者として活躍したこの時期の代表的人物である*6
サント=クロチルド教会も、このような「ゴシック・リヴァイヴァル」の潮流の一環として設計された。「ここには当時の人々が考えるゴシックの理想が凝縮されている」*7。何よりも教会の名前である聖クロティルダこそが、メロヴィング朝フランク王国の初代国王クロヴィス1世の妃として、国王をカトリックに改宗させた人物として、彼女こそがフランスの歴史・文化の起源を象徴しているのだ。

サント=クロチルド教会、パリ

サント=クロチルド教会、パリ

サン・クロチルド教会のファサードの構成は双塔形式であるが、それぞれの塔が尖塔になっている──左右が対称になっている。もともとのゴシック聖堂では、建築時代の違いによりファサードが左右対称になっていなかったり、堂内の柱の形状がかなり異なっていたり、様式的に均一でない場合が多い。しかしネオ・ゴシック様式では様式的統一感が際立っている。中島智章によれば、ネオ・ゴシック様式の「統一感」は新築で一気に建造したという理由以外にも、その統一感こそが当時の理想的なゴシックのイメージを反映しているのだと述べる。ネオ・ゴシック様式の聖堂において必ずとってよいほど、正面ファサードに薔薇窓が設けられるのも(イル=ド=フランス以外の地方のゴシックでは薔薇窓よりも大きなポインテッド・アーチにステンドグラスが施される場合の方が多い)、それがゴシックのあるべき姿だと当時の人々が理解していたからなのである。それこそが「様式」というものの理解なのである。「正確なまがいもの」*8なのである。

ネオ・ゴシックという形で過去の建築デザインがリヴァイヴァルされることによって、19世紀には過去の建築デザインの相対化が一層激しく進み、それらが各時代・各地域に固有の「様式」として理解されるようになった。そしてゴシック様式以外の過去の建築「様式」のリヴァイヴァルもさかんになったのである。
いわくネオ・ロマネスク様式、ネオ・バロック様式、ネオ・ロココ様式、さらにはネオ・ビザンツ様式などといった調子である。また、エジプト建築に対するブームもあった。以上のような建築を「歴史主義建築」、あるいは「様式建築」という。
しかし、このような状況は今現在の自分たちの建築も「様式」という概念でとらえざるをえない事態を招くとともに、では自分たちの時代の独自の「様式」とは何であろうか、という問題意識を抱えることにもなった。



『パリ 名建築でたどる旅』 p.109

サント=クロチルド教会、パリ



静まり返ったサント・クロチルド聖堂の中を、カメラを手に「散策」していたところ、若い学生のような人がオルガンを弾き始めた──僕以外に堂内には2、3人しかいなかったので多分それは人に聴かせるというよりも個人的な練習なのだろう。この教会のオルガンはアリスティド・カヴァイエ=コル(Aristide Cavaillé-Coll、1811 - 1899)によって設計・制作された。教会内が音楽に包まれた。

サント=クロチルド教会、パリ
サント=クロチルド教会、パリ

サント=クロチルド教会、パリ

かつて人々は、ゴシック大聖堂のなかへ入るときには、必ず一種の戦慄を、神々しさの漠とした印象を覚えたものだった。
ガリアの森が我々の父祖の寺院のなかへ導入されたのだ。我々のナラの森林はかくしてその聖なる起源を保ったのだ。樹葉の繁茂を彫り込んだ石造りの天井、壁を支え、切断された幹のような突如終わる柱、石造り天井の冷気、内陣一帯の闇、薄暗い翼廊、隠れた通路、低く作られた扉、これらすべてがゴシック教会堂のなかで森林の迷宮を再現させている。これらすべてが森林の宗教的な恐ろしさを、神秘を、神々しさを感じさせるのだ。
キリスト教徒の建築家は、森林を建造するだけに満足せず、さらに森林のざわめきをも模倣しようとした。オルガンと青銅の釣り鐘を用いて、森林の深くで轟く風や雷の音をもゴシック寺院に与えたのである。こうした宗教的な音響によって過去の世紀は、呼び戻されて広大な大聖堂の石の奥からその古い声を発した溜め息をつく。古代の巫女の洞窟にようにこの神殿はうめくのだ。そして頭上で鐘が轟音をたてているとき、足下では死の地下聖堂が深い沈黙に沈んでいるのである。



シャトーブリアンキリスト教精髄 キリスト教の美しさ』(酒井健『ゴシックとは何か』より再引用、講談社現代新書、p.202)


ネオ・ゴシック様式のサント・クロチルド教会は、「本物の」ゴシック大聖堂と比べて内部は格段に明るく効果的に採光が取られていた。伽藍はまだ白く輝いていた。カヴァイエ=コルのオルガンの音色は非常に甘美で、J.S.バッハ他の高度に洗練された技法で作曲された音楽が演奏された。
サント=クロチルド教会、パリ



サント・クロチルド教会の写真はFlickrにまとめてある→ Basilica of St. Clotilde, Paris

*1:著書の中ではフランソワ・クリスティアン・ゴーと表記されている。

*2:にもかかわらず、『地球の歩き方』などのガイドブックでもほとんど紹介されておらず、ノートル・ダム大聖堂のような観光名所になっていない。なのでディズニーランドのような騒々しいシテ島の大聖堂と違って静かにじっくりと中を観察することができた。

*3:

図説 パリ 名建築でめぐる旅 (ふくろうの本/世界の文化)

図説 パリ 名建築でめぐる旅 (ふくろうの本/世界の文化)

*4:酒井健はその著書『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』(講談社現代新書)でゴシック様式の大聖堂を以下のように評している。「そこは深い森の世界である。身廊から内陣にかけて左右に並ぶ高さ二十メートル有余の石の柱たちは、大開墾運動のなかで消えつつあったブナ、ナラ、カシワなどの高木の形象化にほかならない。そして石柱頂きの起拱点から天井にかけて放射状に伸びる交差リブや横断アーチの曲線は、それら高木のしなやかな枝の流れを表している。樹葉は、柱の起拱点に、下方の柱頭に、場合によってはアミアンの大聖堂のようにトリフォルムにも、浮き彫りにされている。この樹葉の彫刻は、古代ギリシアのコリント式柱頭にあるアカンサス葉文様に端を発しているが、ゴシック樹葉の茂り方は、古代ギリシアのそれよりもずっと執拗で、過剰で、グロテスクだ。北フランスの森の深さとその旺盛な生命力を反映しているのである。」

ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (講談社現代新書)

ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (講談社現代新書)

ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (ちくま学芸文庫)

ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (ちくま学芸文庫)

*5:恐怖政治の大天使サン・ジュストは「共和国を構成するということは、これに反対するものすべてを全面的に破壊することである」と述べた。──酒井健『ゴシックとは何か』より

*6:ヴェズレーのマドレーヌ教会堂のプロスペル・メリメから依頼されたとき、ヴィオレ・ル・デュックはまだ26歳だった。酒井健によれば、現場経験のわずかな若き建築家の抜擢は当時のフランス建築界には古典主義建築の専門家ばかりでフランス中世を研究した修復建築家が皆無に近かったという事情があったという。一方で彼は「一個の建造物を修復するとは、それを維持するとか修繕するとか作り直すとかいうことではなくて、過去の特定の時代にはまったく実在しなかったこともありうる一つの完全な状態をその建築物に取り戻させてやることなのだ」という理念を掲げ、場合によっては中世の建築工匠も望んでいなかったような完全性を中世の建築物に実現しようとした。後に、ヴィオレ・ル・デュックの行った修復は、彼の「恣意性」や事実誤認が指摘され非難を浴びることにもなる。

*7:中島智章『パリ 名建築でたどる旅』

*8:酒井健『ゴシックとは何か』より