HODGE'S PARROT

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2010年に買った本を振り返る

なかなか本が読めなくて(とくに小説が)…読んでも以前のようにブログに感想を書いてなくて…。というわけで、2010年の新刊書の中から個人的に印象に残った書籍をざっと記しておきたい。

透明な沈黙

透明な沈黙

ウィトゲンシュタインの言葉と新世界『透明標本」が組み合わされた、かぎりなく美しい本。気が向いたときに、随意のページをめくって、観て、読んで、そしてとても癒された。
ウィトゲンシュタイン関連では『青色本』が、ちくま学芸文庫から出た。
青色本 (ちくま学芸文庫)

青色本 (ちくま学芸文庫)

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

ウィトゲンシュタイン本の静謐さと打って変わって、白熱した議論の集大成。テレビの『ハーバード白熱教室』も、とても面白かった。こういったベストセラーは斜に構えてスルーするのが「知的な」身振りなのかもしれないが、この本の中には「同性婚」についての議論が含まれているので、僕にはそのようなシニカルな態度は到底取ることができない──そういう人はすでに恵まれた「特権」に浴しているのだろう。

  • 小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』(NHKブックス)

異端者たちのヨーロッパ (NHKブックス)

異端者たちのヨーロッパ (NHKブックス)

ヨーロッパの歴史を「禍々しく」というよりは「華々しく」彩ったカタリ派ら異端の解説本。正統と異端の「正義」をめぐる白熱した闘いは読みごたえがあった。「異端」とは何か──本書で参照されている『カトリック新教会法典』によれば、その定義は、「受洗後、神的かつカトリックの信仰をもって信ずべきある真理を執拗に否定するか、又はその真理について執拗な疑いを抱くことを異端という。キリスト教信仰を全面的に放棄することを背教という。ローマ教皇への服従を拒否し、又は教皇に服属する教会の成員との交わりを拒否することを離教という」。つまり──

この定義からはっきりすることは、異端が洗礼を受けた者であること、したがって異端はあくまでキリスト教の内部に属する問題であること。キリスト教を放棄(背教)したところには成り立たない。異端者は自らがキリスト者、それも真のキリスト者であることを公言するものである。
さらに、異端は教義の明白な否定・懐疑であり、たんに教会の権利から分離すること(離教)ではない。このように、「異端」は「離教」や「背教」といった他のタイプの逸脱とは明確に区別されていることがわかる。




『異端者たちの中世ヨーロッパ』 p.24-25

エクソシスト急募 (メディアファクトリー新書)

エクソシスト急募 (メディアファクトリー新書)

通勤電車の中だけで数日で読み終えた。正統派カトリックの「禍々しさ」を他人事のように楽しめた。ちょっとだけメモしておくと…悪魔学の権威であるバルドゥッチ神父のよれば”悪魔の実在を否定することは、聖書そのものを否定することである””悪魔とは、自らの傲慢さ、いわば自由意思によって天を追われる事態を招いた天使なのです。神は天使を愛しておられるが、そこには慈愛はない。慈愛とは、母親がわが子に抱くような愛情です。神が慈愛を注ぐ対象は人間だけなのです”。
「サタン」はヘブライ語で「告発者」を意味する。

キリスト教において、悪魔のなかで最も重要な地位にいるのはこのサタンであり、その手下である大勢の悪魔がデーモンだ。
実はサタンやデビルたちは、もともと神の創造物であり、はじめはよき天使だった。しかし自らの意思で堕落し、天から追われたのである。天使は人間と違って肉体という限界をもたない。時空を超えた存在、つまり「霊=スピリト」である。



エクソシスト急募』 p.62

新書だけど意外に読みごたえがあった。とくに第11章「ハイチにて」の部分にはかなり参考になった。書きかけの”バイキンの母親 川原泉問題”は全体としてこのテーマに沿っている──その一部を(ジジェクの提示した論点の部分を)記しておきたい。
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フランス革命に呼応して、ハイチの黒人奴隷が「同じ」自由、平等、友愛という理念のもとに反乱を起こした。ハイチ革命*1は「実際に起きたのに信じられないという特異な性格をもって、歴史の舞台に登場した」。ハイチの人々はフランス革命のスローガンをフランス人たち以上に「文字どおりに」受け止めたのだった。
ハイチでの暴動=革命を鎮圧し、奴隷制度を復活=反革命を実行させるために、ナポレオンはフランス軍を派遣する。そこでフランス軍は、ハイチの黒人奴隷たちによる、何かのつぶやきのような、何かの歌のようなものを聞いた──フランス軍はそれを部族の戦闘の歌のようなものだろうと思った。だが、近寄ってみると、ハイチ人たちが歌っていたのは《ラ・マルセイエーズ》だったのだ。《ラ・マルセイエーズ》を歌うハイチ人たちを前にしてフランス軍は、闘う相手をまちがえていないかと声に出して自問した。
ジジェクは「このような出来事は普遍性(Universal)を政治的なものにする」と述べる──それはスーザン・バック=モース(Susan Buck-Morss)が述べたように、「普遍的な人間性が境界で見られる」のだ、と。バック・モースは『ヘーゲルとハイチ』という論文で次のように主張した。

人類の普遍性はむしろ、多様な異なる文化を対等に扱った集団的文化属性を介して間接に認識されるというより、歴史の裂け目に生じた出来事に現れる。自分のもつ文化の緊張を限界まで高めた人たちが、歴史の断絶面において限界を超越した人間性を表わす。そしてこの人たちの言い分を理解できそうなのは、彼らの未熟で自由で傷つきやすい状態に私たちが同化しているときだ。文化の差異にかかわらず、共通の人間性は存在する。特定の集団に帰属しないでいることが、普遍的・道徳的情操を、現代の情熱と希望の源を引きつけうる、隠された連帯を可能にするのである。



スラヴォイ・ジジェクの『ポストモダン共産主義』(ちくま新書) p.188-189

ラ・マルセイエーズ》を歌っていたハイチ人たちは、それこそ植民地支配の「刻印」なのではないのか? 自らを解放する過程ですら、西欧宗主国での都市の解放というモデルに従わざるをえなかったのではないのか? 真に革命的に行為とは、植民者であるフランス人たちが被植民者のハイチ人たちの歌を歌うことではなかったのか?

それは二重にまちがっている──ジジェクはそのように断言する。

この非難は二重にまちがっている。第一に、見かけと逆で植民地の領有国は、その国のアイデンティティを示さない(植民地の)歌を被植民者が歌うことを大いに認めている。植民者は寛容さと相手への尊重を示すために、被植民者の歌を習うことを好む。

第二に、はるかに重要なことに、ハイチ兵が「ラ・マルセイエーズ」を歌ったことのメッセージは、「ほら見ろ、おれたち野蛮な黒人も、おまえらの高尚な文化と政治に慣れ、手本としてまねることができる!」ではなく、もっともはっきりと「この戦いでおれたちは、きさまらフランス人よりフランス的だ。革命のイデオロギーの奥深い意義を、きさまらが担えない意義を表わしている」と宣言しているのだ。


このようなメッセージは植民者を激しく動揺させずにはおかない。



ジジェクの『ポストモダン共産主義』 p.190

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新約聖書 1 (文春新書 774)

新約聖書 1 (文春新書 774)

携帯に便利な新書なので、これでどこでも──通勤電車の中でも、レストランの中でも、ゲイ・クラブの「待合場所」にいても聖書が読める。

バッハ=魂のエヴァンゲリスト (講談社学術文庫)

バッハ=魂のエヴァンゲリスト (講談社学術文庫)

J.S.バッハの作品をその時代ごとに丁寧に読み解いていく名著中の名著。とくに興味を惹いた点を挙げると、旧東ドイツで支配的だった「バッハ感」──東独の学者たちはバッハと啓蒙主義の結びつきを強調してバッハの「歴史的進歩性」に光を当てようとした企てたこと、だ。著者のそういった「バッハ感」に対して慎重な留保が必要だと説く。

当時ヨーロッパには啓蒙思想が浸透しつつあり、そこでは理性が万能視されて、信仰すら理性の光の下に洗い直そうとする風潮が、あらわれてきた。しかし、理性がどうして十字架の神秘を解せようか。キリスト者の滅びが実は新たな命への蘇生であることを、どうして理性が信じることができようか。バッハは詩人とともに信仰の立場に立ち、皮相な流行に、警鐘を発する。




『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』 p.199

  • こちらも文庫化されたジョン・フランクリン・バーディン『悪魔に食われろ青尾蠅』(浅羽莢子 訳、創元推理文庫

悪魔に食われろ青尾蠅 (創元推理文庫)

悪魔に食われろ青尾蠅 (創元推理文庫)

この素晴らしいサスペンス小説が1940年代のアメリカで書かれたという奇跡。主人公はハープシコード奏者でバッハの音楽を愛している。そしてその音楽とともに悪夢がもたらされる……。この本とほぼ同じ時期に書かれたマーガレット・ミラーの『鉄の門』を読まずしてミステリは語れないだろう。単行本でも読んだのだが買い直した。

  • 三島由紀夫の愛した美術』(宮下規久朗&井上隆史、新潮社)

三島由紀夫の愛した美術 (とんぼの本)

三島由紀夫の愛した美術 (とんぼの本)

美術の本として──しかも一般的な美術書に膨大に見られる「裸婦像」はほとんどなくて、その代わりに男性ヌード像が数多く掲載されているという見応えのあるアート本。もちろんグイド・レーニの『聖セバスティアヌス』は特権的に扱われている。
さらにこの本では、三島由紀夫が選んだ「西洋美術史における青年像八点」が掲載されている。それは以下。

  1. ミュロン『円盤投げ』
  2. デルフォイの馭者』
  3. ミケランジェロ『瀕死の奴隷』
  4. ティツィアーノ『手袋をもつ男』
  5. ルドヴィコ・カラッチ『聖セバスティアヌス』
  6. ベラスケス『バッカスの勝利』
  7. ダヴィッド『ナポレオン・ボナパルトの肖像』
  8. ギュスターヴ・モロー『若者と死』

なるほど。後で僕も同様の趣向のランキングをやってみたい。

タッソ エルサレム解放 (岩波文庫)

タッソ エルサレム解放 (岩波文庫)

まだ読んでいないのだが、翻訳されて嬉しいので。近いうちに必ず読む。

ピエール・リヴィエール---殺人・狂気・エクリチュール (河出文庫)

ピエール・リヴィエール---殺人・狂気・エクリチュール (河出文庫)

途中で中断していたのだが…ディディエ・エリボンのフーコーの伝記を読んで再び読みたくなった。

  • 『ミクロコスモス 初期近代精神史研究 第1集』

ミクロコスモス 初期近代精神史研究 第1集

ミクロコスモス 初期近代精神史研究 第1集

これを忘れるところだった──初期近代(14-18世紀)の精神史という未曽有の沃野を。アカデミックな研究論文集にもかかわらず、まるで『ダ・ヴィンチ・コード』のようなエキサイティングな世界が描かれており、いやがうえにも好奇心を掻き立てる。

20世紀を語る音楽 (1)

20世紀を語る音楽 (1)

20世紀を語る音楽 (2)

20世紀を語る音楽 (2)

いま夢中になって読んでいる──読んだ部分から判断しても2010年のベストは、この本に決まりだ。何十年に一度あるかないかの重要な音楽書であり、そしてその音楽を通して20世紀という時代がどういうものだったのかが、本書で語られる──考えさせられる。とりわけベンジャミン・ブリテンに関しては、日本語で読めるもので、これほど「切実に」論じられているものは他にないであろう。この本を読んだことによって僕の音楽鑑賞自体が変わるかもしれない。

ブリテンは翌年の12月、細菌性心内膜炎から起きた合併症、マーラーが亡くなったのと同じ病気で、63歳で亡くなった。マイケル・ティペットがとりわけ寛容な追悼文を書いた。「私はいまここで、ブリテンが私にとって、これまでに会い、またこれまでに知ったもっとも純粋に音楽的な人であったと言いたい」。
それと同じように目を引いたのは、イギリス国教会の首長である女王エリザベス二世のとった行動である。ブリテンの死のニュースが届いたとき、彼女はお悔みの電報をピーター・ピアーズに送った。




『20世紀を語る音楽 2』 p.464

この『20世紀を語る音楽』は、アレックス・ロスの両親と彼の「最愛の夫」であるジョナサンに捧げられている。