HODGE'S PARROT

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「怖い絵」がいっぱい! ルーヴル美術館



先日ツイートしたがルーヴル美術館で見つけた「怖い絵」についてまとめておきたい。
なんといってもこの絵だ。ヤン・プロヴォスト(Jan Provoost/Jan Provost、1462/5 - 1529)の『キリスト教の寓意』(Allégorie chrétienne/Allegory of Christianity)という作品。
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「寓意画(アレゴリー)」なので、フェルメールの有名な『信仰の寓意』*1のように「象徴するもの」がゴテゴテと画面に並べられており、登場人物(キリスト、聖母マリア)もアトリビュートを身につけながら大仰な身振りをしている。しかし、それにしても、画面の上下で何かしらこちらを窺っているような(あるいは監視しているような)目玉は──しかも下の眼は物憂げに薄目を開けた状態だし──強烈だ。しかもその下の眼からはニョキニョキと手が生えているし。さらに大きな手が掴んでいる、真ん中に十字架の生えた地球(地球儀)もなんだか虫が食ったような穴が開いていて、これは何を意味・象徴するのだろう、と考えれば考えるほどわからなくなる。精確に左右対称の構図も見事で、それゆえにちょっと薄気味悪い感じがする。
ルーヴル美術館にあるトラウマ絵画としては断トツ。ネーデルランド(フレマール)の画家ヤン・プロヴォスト、GJ!

ここで決定的に重要なのは、「イエス・キリストの信仰」という言葉のあいまいさである。この「の」は、主格にも目的格にも読むことができる。つまり、これは「キリスト信仰」か、「キリストに対する/われわれ信者の/信仰」か、そのどちらかである。われわれは、キリストの純粋な信仰によって救済されるか、あるいは、われわれがキリストを信仰している場合にかぎり、キリストに対する信仰によって救済されるか、そのいずれかである。
ことによると、この二つの意味を同時に読み込む方法はある、といえるかもしれない。われわれが求められているのは、キリストの神性そのものを信じることではなく、キリストの信仰、彼の罪のない純粋さを信じることであるからだ。


キリスト教が提示するのは、われわれにとって、信じていると想定された主体として存在するキリストである。われわれは日常において、何かを本当に信じることはまったくない。しかし、なにかを本当に信じている〈一者〉が存在するという慰めを得ることはできるのである。
しかし、ここで最後のひねりが来る。それは、〈十字架〉の上では、キリスト自身が、みずからの信仰をつかの間ではあれ中断しなければならない、ということである。したがって、キリストは、深層のレヴェルにおいてむしろ、われわれ(信者)にとって、信じてい〈ない〉と想定された主体として存在するのかもしれない。つまり、ここでわれわれが他者に転移するのは、われわれの信仰ではなく、われわれの不信仰である。〈他者〉を通じて信仰を保ちつつなにかを疑ったり、ばかにしたり、疑問に付したりする代わりに、われわれは、絶えずわき上がる懐疑を〈他者〉に転移し、それによって信じる力を回復することもできるのだ。



スラヴォイ・ジジェク『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』(中山徹 訳、青土社)p.153-154 *2


次にこの絵。カロン派『アモルの葬礼』(School of Antoine Caron, The Funeral of Amor)。
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フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母親であるカトリーヌ・ド・メディシスによる権謀術数が渦巻くヴァロア朝末期の宮廷に仕えた画家、フォンテーヌブロー派アントワーヌ・カロン。この絵では、死なないはずのアモルが一人死んでいて、黒頭巾をかぶった生きているアモルたちが楽しげな葬礼を執り行っている。葬式ごっこをしている子供たち? 何かしら寓意があるのだろうが、それを「明確に」読み取れない──解釈できない──もどかしさが、ちょっと不安になる。

フロイトの『快感原則の彼岸』にでてくる「いない-いた Fort- Da」遊びは、フロイトに関する理解度をはかる上で恰好のテストになるかもしれない。標準的な解釈によれば、フロイトの孫は、糸巻きを投げることによって、母親の不在と回帰を象徴化している。「いない Fort!」──そして糸巻きをたぐり寄せて──「いた Da!」というふうに。したがって、事態は明確であるようにみえる。母親の不在というトラウマを経験した子供は、その不在を象徴化することによって不安を克服し、状況を操作するのである。母親を糸巻きに置き換えることによって、この子供は、母親の出現と消失を演出する舞台監督になるのだ。かくして不安は、子供がこの支配力を嬉々として行使するなかで、首尾よく「止揚される aufgehoben」。




ジジェク『操り人形と小人』 p.90


それと、これ。
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片足を吊るされたウサギの表情がなんとも……”基本的な動物的刺激にも反応しなくなってしまったある種の「生ける屍」である”。
同じ題材を扱った絵がもう一つあった。写真のように精確でリアルな描写が、いっそう迫真的な状況を呼び覚ます。
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われわれは、(ナチス強制収容所において Musulmanen と呼ばれていた)回教徒が人間の基本的な威厳を奪われていることを悔やみながら、単純に彼らの運命を嘆くことはできない。なぜなら、ひとりの回教徒を前にして「上品」であること、「威厳」を保つことは、それ自体、まったく下品な行為であるからだ。
ひとは回教徒を単純に無視することはできない。回教徒のパラドクスの恐ろしさに向かい合うことのない倫理的立場は、そもそも非倫理的であり、倫理を装う猥褻な偽物である。そして、われわれが実際に回教徒に向き合うやいなや、「威厳」のような概念は、ともかくも実質的な意味を失ってしまうのだ。いいかえれば、「回教徒」は、たんに倫理の階層における「最下位」のもの(「彼らは威厳をもたないだけでなく、動物的な活力や利己主義をも失ってしまった」)ではなく、その階層全体を無意味なものにする零レヴェルである。このパラドクスを考慮しないことは、ナチス自身が実践したシニシズムに加担することである。


つまり、まず最初にユダヤ人を暴力的に人間以下の存在におとしめておきながら、そのイメージをユダヤ人が人間以下の存在である証拠として提示するあのシニシズムに。


ナチスは、屈辱の与え方の基本、たとえば、品格のある人のズボンのベルトを取り上げ、彼に手でズボンを引っ張り上げるように強制し、そのあとで彼をみっともないやつだとあざけるといったやり方を極限まで試したのである。


この意味で、われわれの道徳的威厳は、結局のところ、つねに偽物である。つまり、われわれの道徳的威厳は、回教徒になる運命を避けられるほど運がよかったということに依存しているのだ。
ナチス強制収容所から生き延びたひとが「不合理な」罪悪感に取り憑かれたのは、おそらくこのためである。つまり、生存者たちが直面したのは、生存のまったき偶然性ではなく、それよりも根源的な偶然性、すなわち、道徳的威厳──カントによれば、われわれの人格の核にあるもっとも貴重なもの──を待ちつづけることのまったき偶然性である。




ジジェク『操り人形と小人』 p.237-238