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なぜプロレタリアはインターナショナルになるか



地政学を英国で学ぶ」でバラク・オバマ大統領の演説について「そのすごさ」が明快に指摘されていた。

どうすごいかというと、欧米で国際関係論を多少学んだ人ならおわかりのように、彼はリアリズムの議論(とくにニーバーの得意とする道徳論)を使って、人間性や悪の存在、それに戦争と平和という永遠のテーマを語ったからですね。



http://geopoli.exblog.jp/12489434/


なるほど……というわけで、プロテスタント神学者にして政治哲学者であるラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr、1892-1971)の政治学的・道徳論的論考「道徳的人間と非道徳的社会」(Moral Man and Immoral Society: A Study in Ethics and Politics)を読みはじめた。興味深いところがあったのでメモしておきたい。

ニーバーは人間の知性や想像力には限界があることを認めている──隣人の利害を自己の利害と同じくらい「よく見える」ことはできない、と。自己自身の利害から超越する能力はもっていないのだ、と。だから、人間は、社会的統合をつくり出すために権力を不可欠とする。しかし、その力(権力)は、平和を保証するだけではなく、同時に不正義をも生み出してしまう。個人であれ集団であれ、その「意図」(インテンション)あるいは「口実」(プリテンション)が、どれほど社会的なものであったとしても、それは自分自身に過度の社会的特権を要求するものなのである──社会のためという倫理的目的の意図・意志は、口実なのである。たとえどんな倫理的洞察を有していても。
しかも、社会・集団それ自体が人間的生の残虐な事実をおおいかくそうとする傾向をもっている。むしろ、社会なるものは、そういった「隠微」によって成り立っているのではないか。それは端的に偽善であり欺瞞である。
しかし……偽善が生じ、欺瞞が生まれるのは、なぜか。それは、人間が、良心をもっているからではないか、あるいは人間が、道徳的規範をもっているからではないか。ニーバーはそのように述べる──「人類のあらゆる集団的行動には不可避的にこのような偽善がつきまとっているが、それは諸個人が集団的行動を良心にたいする反逆と感ぜざるをえなくなるような道徳的規範をうちにもっているからであり、それゆえにかえって偽善的になるのである」と。個人の道徳的社会的行動と、国家的・人種的・経済的な社会諸集団の道徳的社会的行動とのあいだには、先鋭な区別の一線が引かれなければならない。個人の道徳性と、集団の道徳性を区別しなければならない。集団(社会)の道徳性は、個人の道徳性に端的に劣っている──その避けがたい制約、その限界を自覚しなければならない。「国家の偽善性、それがおそらく最も重要な国家の倫理的特質であろう。……自己欺瞞と偽善とは、すべての人間存在の倫理的生における恒常的要素である。それは、道徳性が非道徳性にたいして支払う対価である」と。

政治とは、良心と権力とがぶつかり合う場である。人間の倫理的要素と強制的要素が相互に入り組む場なのである。そこでは、両者の──良心と権力の、倫理的要素と強制的要素の──不安的な妥協が、一時的に、成り立つ場なのだ。
「人間は個人としては、たがいに愛し合い、たがいに仕え合うべきであり、たがいのあいだに正義を実現すべきだと信じている。しかし、人種的・経済的・民族的集団としては、彼らは権力の命じるところにしたがってしまうのである。」

歴史をとおして人間が見いだすものは、権力のなかに権力自体の存在理由そのものを破壊する傾向があるということである。権力がそうなるのは、実はそれが国家の内的統一を実現したり、その外的防衛を生み出したりするからである。それがある段階になると、その苛酷さのゆえに憎悪をひきおこし、国家の社会的平和を破壊するようになり、また一般の人間を国家に結合しているところの彼らの基本的特権を奪うことによって、彼らの愛国心を衰微せしめるようになるのである。
プルタークによれば、次の言葉はティベリウスグラックスの言葉とされているが、それは権力階級がその支配体制を守るために奴隷の協力を得ようとしている欺瞞的口実(プリテンション)がいかに虚妄であるかを暴露している。「イタリアにおける野の獣たちは、少なくとも彼らが眠るねぐらや巣や洞穴をもっていた。ところがその国のため死んでいった人間は、そこに空気と光以外のなにものも持っておらず、彼らの妻や子供たちとやどるべき休み所もなく、あてどなくさまよい歩かねばならない。……貧しい者たちは、他人の享楽と富裕とぜいたくのために戦場におもむき、たたかい、そして戦死するのである。」ながい目でみれば、これらの欺瞞的口実はあばき出され、そして貧しい者たちの心からの愛国心は逼塞せしめられるのである。


特権階級は、近代プロレタリア階級のなかに愛国心の欠如をみて、衝撃を受けているようだが、少しく歴史を学ぶだけで、なぜプロレタリアがインターナショナルになるか、理解できるであろう。

ディオドルス・シルクスは、エジプトについてこういっている。「一国の国防を、そこになにも所有していない人びとにゆだねることは、不条理である。」この反省は、彼自身の時代と国家にとってだけでなく、その他の時代と国家にとっても、妥当性をもっている。
純粋なロシア共産主義者たちは、第一次大戦においてヨーロッパの社会主義者たちが階級にたいする忠誠よりも愛国心にほうに重きをおいたといって非難した。しかし、ヨーロッパの社会主義者ナショナリズムをとるようになることは、単純に説明できる。それは、彼らが、ロシアの同志たちほどに徹底的に、あるいは少なくとも明白な形では収奪されていないからなのである。




ラインホルド・ニーバー『道徳的人間と非道徳的社会』(大木英夫 訳、白水社『現代キリスト教思想叢書8』所収) p.221-222 *1


ここで「徹底的に、あるいは少なくとも明白な形では収奪されていないからなのである」というのは、あるいは少なくとも明白な形では収奪されていないように「見える」といったほうが、現在ではより通用するだろう。





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*1:新装版が同じく白水社から出ているようだ。

道徳的人間と非道徳的社会 (イデー選書)

道徳的人間と非道徳的社会 (イデー選書)