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《峡谷から星たちへ》からホワイトノイズへ



久しぶりに長い音楽を聴く時間が取れたので、オリヴィエ・メシアン(Olivier Messiaen、1908 - 1992)の《峡谷から星たちへ》を聴きかえした。演奏は、エサ=ペッカ・サロネン指揮&ロンドン・シンフォニエッタ、ポール・クロスリー(ピアノ)。カップリングは《異国の鳥たち》(1956)、《天の都市の色彩》(1963)だ。

メシアン:峡谷から星たちへ

メシアン:峡谷から星たちへ


《峡谷から星たちへ》の演奏時間は約90分。三部からなり以下の12の楽章から構成される。
峡谷から星たちへ/Des canyons aux étoiles… (1971-1974)


時間が取れた、といっても、このメシアンの長大な音楽を聴くためにかなりの時間を費やしたので、この音楽に関するブログを書く時間は短縮したいと思う。なので数年前に別のところに書いたものを流用する。多少「文脈」にズレがあるが──例えば以下の冒頭の「最近」というのは字義通りではなく「数年前」のことを意味している*1。では……


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最近良く耳にする「共感覚」という現象。これはある刺激を受けたとき、本来の感覚に他の感覚が伴って生ずる現象で、例えば書かれた文字や言葉の響きに「色」を感知してしまう特殊な知覚のことだ。

『言葉や音に色が見える――共感覚の世界』


この記事によると、共感覚を有する人は、新聞を読んだり、発語された言葉を聞いたり、あるいは数字を見ただけで色彩が閃いたり虹色が見えたりするそうだ*2

この「共感覚」という知覚。僕はまあ有していないと思うが、作曲家のオリヴィエ・メシアンはもしかして共感覚者だったのでは、と感じることがある。なにしろメシアンの音楽は独特だ。あの「時間」に「色彩」を当て嵌めたという《クロノクロミー Chronochromie (Time-colour)》を始め、その響きは「色」とは切り離せない。
そして常人の理解を遥かに超えた次元で展開される色彩に関するメシアンの言説は、彼のあまりにも「確信に満ちた・満たされた」熱烈なカトリック思想と相俟って、いかがわしさと背中合わせの神秘の法悦に満たされている──もちろんそれこそがメシアン作品の最大の魅力だ。
(またそのものすばりの『メシアン、音楽と色彩』/Olivier Messiaen "Music and Colour",Amadeus Press/ という本も出版されている)。

このCDに入っている3曲は、まさしくメシアン共感覚説を裏付けるような強烈な響き=色彩が迸っている。
『異国の鳥たち』は題名の通り鳥の声を音楽化したもの。リズミカルで多少攻撃的な鳥の鳴声が、驚くべき精度と強度を保ちながら響き渡る。

『天の都市の色彩』はヨハネの黙示録からイメージを得たもので、メシアンの特異な色彩感覚が炸裂する。楽器編成はピアノ、3つクラリネット、3つのシロフォン金管、そしてメタリック・パーカッションという独特なもの。
この曲でメシアンは黙示録を引用し、そこで示される色彩をスコアに記している。これこそ、音の複合体と色の複合体が関連付けられている──つまり共感覚の証左であり、サイケデリックな、まさしく虹色の響きを孕んだ音楽と言ってもよいだろう。黙示録と言ってもその響きは決して重々しくも禍禍しくもない。メタリックな感触のする輝かしい音色を放ち、その眩しさに聴く者をチックさせながら、音楽は独特のリズムを刻み、疾駆していく。


1976年はアメリカ建国200周年であった。それを祝うために Alice Tully に委嘱された作品が『峡谷から星たちへ』である。この曲を作曲するにあたり、メシアンアメリカのユタ州にあるブレイスキャニオンとザイオン国立公園を訪れ、その雄大な自然に多大なインスピレーションを得た。

音楽はその威容な景観に相応しい大胆かつ華麗なもので、人知を超えた自然に対する畏怖と畏敬の念に貫かれている。
ホワイトノイズを思わせる「砂漠」から始まり、メシアンのトレードマークとも言える多彩な「鳥の声」、堂々たる「ブレイスキャニオンと赤き岩」、ホルンによる「惑星の呼び声」、星(アルデバラン──牡牛座中のオレンジ色に光る1等星 )の煌き、「ザイオン国立公園」の圧倒的な迫力、そして「神聖な都市」の静寂へと……。
まさに常軌を逸した音のコスモスがそこにはある。その音楽は全能の神の技か? と言ったら敬虔なメシアンからは「畏れ多くも」と異論を投げかけられるだろう。しかしアメリカで最も宗教的な州に降臨したのは、メシアンその人に他ならない。
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ここからが現在──つまり2009年12月13日に書いているものだ。メシアンの《峡谷から星たちへ》は多彩な色彩──つまり多彩な音響に彩られているのだが、とくに「ホワイトノイズ」のような音響が印象的だった……と書いた。しかし実のところ、そのときは、「ホワイトノイズ」というものを正確に知っていたわけではなかった。でも今では YouTube で「ホワイトノイズ」を聴くことができるようになった(もちろんオリヴィエ・メシアンの音楽自体も聴くことができるようになったが)。
white noise

「ピンクノイズ」も聴くことができる。
pink noise

それと「ブラウンノイズ」も。
brown noise

そして、もう一度、ホワイトノイズとピンクノイズとブラウンノイズを聴き比べてみたい──その色の違いを聴きとってみたい。
White, Pink, and Brown Noise



この YouTube の「ノイズの色」(Colors of noise)を聴いて、以前書いた《峡谷から星たちへ》の文章を訂正するならば……「ホワイトノイズのような」は「ピンクノイズのような」でもいいし「ブラウンノイズのような」でもいいように思える。というか、僕にとっては、実際にそこに色彩が見えないので、単なる「ノイズ」でいいんじゃないかな、と。

共感覚についてほとんど知られていないのは、共感覚者の多くが自分の特別な知覚を認めようとしないからだという。あるいは、自分が他の人と違うことを知って驚き、他人もみな自分と同じ色とりどりの世界を見ているものとばかり思っていた、と話す共感覚者もいる。

共感覚は、脳の中で色を知覚する部分が、会話や言語、音楽を処理する部分ときわめて近いために起こる現象だと考えられている、とハバード氏は説明した。




言葉や音に色が見える――共感覚の世界 [WIRED VISION]


[関連エントリー]

*1:それとはっきりと書いておくが、「この」エントリーは本来、「ここ」に書くべきものではなかった。つまり、前エントリーと前々エントリーの「流れ」に則して「薄汚い差別マンガ家問題」を書くはずだった──実際に書いたのだが、あまりにも怒りが込み上げてきて、あまりにも長大になりすぎてしまった(「その」エントリーの位置は、これまでと同様、重要だ。「額縁」のように。狙いをピン留めするように)。そのため一つのエントリーとして書くよりも複数にわけて書くべきだと──そのほうが効果があると思い修正を施していたところ、いろいろと忙しくなってしまって、結局、そのままになってしまっていた。しばらくブログを更新しなかったのは、「ここ」に「その」エントリーを書き留める予定があったからだ。しかしながら、時間が経ってしまって「その」エントリーを「ここ」に書く意味合いが薄れてきたように、ここのところ、感じるようになった。なので、現在、「この」エントリーを「ここ」に書いている。ただし「その」エントリーを書くことを放棄したわけでは決してない──そんなことはありえない。なにかしら「トリガー」に接した場合に、すぐさま書く。絶対に。タイトルは決まっている「レディ・ジョーカー 川原泉問題」だ。使用する音楽はペルゴレージの《スターバト・マーテル》とJ.S.バッハの《シャコンヌ》。ルカとマルコの福音書を参照する。

*2:「文脈」は異なるが、ルドルフ・シュタイナー人智学──すなわち「超感覚」によって、地球の叫び声を本当に聴いてしまうことも関連するだろう。「人は知識には緩慢でも、感覚には即座に反応するものだから」。差別主義者の「言動」に激しい怒りを感じてしまうように。