HODGE'S PARROT

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「シューマンを聴きながら」3



青柳いづみこ著『音楽と文学の対位法』を読んだ。第2章がロベルト・シューマン論であった──”シューマンとホフマンの「クライスレリアーナ」”。それはこんな風に始まる。

1854年2月27日、ローベルト・シューマンライン河に身を投げる直前に書いた曲は、《主題と変奏”天使”》というタイトルでヘレン社から出版されている。
変ホ長調の主題は、おだやかなコラール風の音楽で、前年に書かれた《ヴァイオリン協奏曲》の第ニ楽章、独奏ヴァイオリンの旋律を思わせる。
2月10日の夜、シューマンはすさまじい聴覚障害におそわれ、まったく眠ることができなくなった。クララの日記によれば、どんな雑音も、この世では聴くことのできないほどすばらしいひびきのする楽器で奏でられる、えも言われぬ音楽のように聴こえるという。
14日には、デュッセルドルフ管弦楽団のコンサート・マスター、ルッペルト・ベッカーに不思議な幻覚のことを打ち明けている。
「美しい音楽が完全な作品の形をとって聞えてくる、というのだ! 音色は、遠くから聞えてくる管楽器のように響き、この上なく壮麗な和音の響きは際立って美しいという。われわれがユンゲ(レストラン)にすわっていたときにも、彼の心の奥底で音楽が始まり、彼は新聞を読み続けられなくなってしまったのだ!」




青柳いづみこ『音楽と文学の対位法』(みすず書房) p.44-45 *1


これを読んでシューマンの音楽が無性に聴きたくなった──フェルナン・クノップフの絵画作品を思い浮かべながら、あの音楽を、何度も、何度でも。


En écoutant du Schumann/listening to Schumann


ヴァイオリン協奏曲ニ短調より第2楽章
Robert Schumann violinconcerto op 134 d minor langsam Romance Romanze Violinkonzert Peter Rybar violin Lausanne Symphony orchestra Victor Desarzens concert hall lp recorded around 1948


色とりどりの作品 Op.99 より
Vladimir Sofronitsky plays Schumann 3 pieces from Schumann - Bunte Blätter, op.99


森の情景 Op.82 より《予言の鳥》(ヴァイオリン編曲版)
"Der Vogel als Prophet" Schumann arr.Heifetz, Koelman violin


ウィーンの謝肉祭の道化 Op.26 より《インテルメッツォ》
Schumann: Intermezzo from op.26 - Marco Tezza


オーボエとピアノのための3つのロマンス Op.94
Schumann Romance for oboe 1


ダヴィッド同盟舞曲集 Op.6 より第2曲「心をこめて」
Robert Schumann davidsbundler's march


リーダークライス Op.39 より《月の夜》(チェロにより演奏)
Schumann Mondnacht


そして、あらゆる音楽の中で僕の最も好きな《クライスレリアーナ》 Op.16 より第7曲と第8曲
Vladimir Sofronitsky plays Schumann Kreisleriana Op. 16 (4/4)

シューマンの《クライスレリアーナ》第七曲の錯綜するテクスチュアに、クライスラーがグランド・ピアノで披露する即興演奏を思い浮かべる人は多い。荒々しくくだかれた不協和音がぶつけられ、せかせかしたモティーフがからみあい、天使と悪魔の追いかけっこのようなフーガが展開される。そして、音楽はクライスラーが次のように語るハ短調で書かれている。
君たちはあいつのことを知らないのか。見よ、彼は灼熱した爪で私の心臓に掴みかかる。あいつは、ありとあらゆる醜悪な仮面をつけては、密漁者、コンサートマスター、いかさま医者、豪商へと変装する。あいつは私に演奏させまいとして、芯切り鋏をピアノ線の上に投げつけたのだ。
クライスラーよ、クライスラーよ、奮い立て。まっかに燃える眼をした、蒼褪めた亡霊が、鉤爪の生えた骨の拳を、外套の裂け目からお前の方に伸ばして待ち伏せしているのが見えるか。毛のないすべすべのしゃれこうべの上に麦藁の王冠を戴いて揺すっている。狂気の沙汰だ。ヨハネスよ、毅然たる態度をとるのだ。気のふれた、気のふれた人生の亡霊よ、なぜおまえは、こんなにも私を、おまえの魔界で揺すぶるのだ。私はおまえから逃れることはできぬのか。ぞっとするほどしつこい亡霊よ」(「音楽=詩クラブ」)




青柳いづみこ『音楽と文学の対位法』(みすず書房) p.81

シューマンを聴きながら──とりわけ《クライスレリアーナ》を聴きながら、あるピアニストについて考えていた。そのピアニストはロベルト・シューマンが得意だった。ロシア出身のユーリ・エゴロフ(Youri Egorov、1954 - 1988)のことだ。

Piano Works

Piano Works

この2枚組のCDは DOUBLE FORTE というEMIの廉価版シリーズのものだった。《クライスレリアーナ》を始め、なかなか良さそうな選曲をしているなと思い購入したのだった。そのときは演奏者であるエゴロフについては何も知らなかった。収録曲は、

《謝肉祭》の冒頭、その充実した和音の響きを聴いただけで、このエゴロフというピアニストが並々ならぬ技巧の持ち主であることがわかった。フロレスタン的な音楽、例えば《パガニーニ》やシューマンの仮想的フィリスティンへの意思表明であるラストの《フィリスティンを打つダヴィッド同盟の行進》といった激しい音楽だけではなく、オイゼビウス的な叙情的な曲調の音楽、ロマンティックこのうえない《キャリアーナ》《ショパン》《エストレルラ》を「心をこめて」弾いている──それが十分すぎるくらい伝わってくる。何度も何度も、それこそ何度も聴いたことのある《謝肉祭》であるが、それでもなお、感動を与えてくれる素晴らしい演奏がこの世に存在していることを知って、なんだかとても嬉しくなった。そして《トッカータ》という古今のピアノ曲の中でも最高に難易度の高い超絶技巧の曲を、これほどまでに鮮やかに、あのスピードを保ったまま聴かせてくれるなんて! 
なぜ自分は、これほどまでに凄いテクニックを持っているピアニストについて知らなかったのだろう。
《謝肉祭》や《トッカータ》という演奏効果抜群の曲だけではない。《色とりどりの作品》のような、どちらかというと地味で録音もさほど多くはない作品でも、エゴロフは最上の音楽の時間を与えてくれる──この曲を録音すること自体、シューマンの音楽への愛が感じられる……そういうものである*3。《アラベスク》や《パピヨン・蝶々》《ノヴェレッテ》という、いかにもシューマンの詩情に溢れる音楽もよかった。とくに《パピヨン》の最後、一度響かせた和音から次第に音を一音一音と消していく終止法の効果が際立って美しかった──音が消え去っていっても、心の中で、その残響がいつまでも鳴り響いている。
そして《クライスレリアーナ》──その演奏は、先に青柳いづみこ氏の著書より引用したホフマンの「小説の中の音楽」のように、凄まじい迫力で、怒涛のごとく迫ってくる。まさに「ホフマンがクライスラーに語らせた、荒々しくも、爆発的な音楽幻想」(ザフランフキー)そのものであった。圧倒的であった。
なぜ自分は、これほどまでに素晴らしい表現力を有しているピアニストについて知らなかったのだろう。
……それはユーリ・エゴロフはすでに亡くなっていたからだ。1954年に生まれた彼は、1988年に33歳の若さで死亡している。エイズによる合併症によって。彼はゲイであることをカミングアウトしていた。
そのことを知ったのはつい最近のことだった。『YOURI EGOROV LEGACY』というディスクを偶然にも見つけたからであった──なぜ「レガシー」なんだろうとそのとき思った。
ショックであった。そしてエゴロフの死を知ってから再び聴いた《クライスレリアーナ》は強烈であった。心を揺さぶられた。打ちのめされた。音楽は「音楽そのもの」だけを聴いているのでは決してない。そのことを改めて理解した。切実なまでに。
そして──だから、怒りが込み上げてきた。ユーリ・エゴロフのような人に対して「バイキン」と罵った──平然と蔑称を使用し、差別語を弄し、子供向けのマンガにヘイトスピーチを書き放った──川原泉に対してだ。なぜだ? 何が狙いなんだ? その目的はいったい何だ? 後で書く。絶対に。書かざるを得ない。絶対に。絶対に赦せない。絶対に赦さない。
ユーリ・エゴロフは死んだ。それなのに、なぜ、薄汚い差別主義者はいまだ生きているのだ? なぜだ? なぜなんだ?
Vladimir Sofronitsky plays Schumann Kreisleriana Op. 16 (1/4)

*1:

音楽と文学の対位法

音楽と文学の対位法

*2:いくつかの YouTube の動画がすでに見られなくなっていたので楽曲は同じだが別の演奏のものに差し替えた。シューマンの音楽は「不滅-消し去り難きもの」(Inextinguishable)であり、そうであるべきなのだ。

*3:この《色とりどりの作品》の第4曲を主題としてブラームス《シューマンの主題による変奏曲》Op.9 を書いた