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米福音ルーテル教会、ゲイの聖職者を認める


キリスト教の、そしてプロテスタントの主流も主流*1──マルティン・ルター宗教改革の流れを汲むルター派である──アメリカ福音ルーテル教会(Evangelical Lutheran Church in America、ELCA)は21日、新たな改革(チェンジ!)を行った。
ゲイやレズビアンで、同性との関係(same-sex relationships)を今まで持っていて、そしてこれからもその関係を続ける人たちを聖職者として認めることを決定したのだ。


[http://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5hHXJ_lMZ5lP3V2v1L4icjf9eBwig:title=US Evangelical Lutherans accept 'committed' gay clergy] [AFP]

A US Evangelical Lutheran church has opted to allow gays and lesbians in "committed" relationships to serve in its clergy, in a controversial decision that could divide its 4.6 million US members.

The Evangelical Lutheran Church in America (ELCA), which has 10,000 congregations throughout the United States, voted Friday evening on a contentious text authorizing homosexuals in committed relationships to join the clergy.

After passionate debate, church delegates voted 559 to 451 "to open the ministry of the church to gay and lesbian pastors and other professional workers living in committed relationships," said church information director John Brook.

"The actions here change the church's policy, which previously allowed gays and lesbians into the ordained ministry only if they remained celibate," he told AFP.

教会が「同性との関係を持っている」聖職者を認めたことは重要で(これまでは貞節を守っているゲイやレズビアンはOKだった)、このことは聖書の解釈・教義にも影響を与えざるを得ない。つまり同性愛に対する認識・態度、同性婚を認めるか否かという議論とそれによる「祝福」にも通じるものだ。さらに今回のルーテル教会の決定は、他の宗派の動向にも大きな影響を与えるだろう。*2

For supporters of the decision, including Bishop Gary Wollersheim of the ECLA Northern Illinois Synod, it is simply a case of doing the right thing.


"It's a matter of justice, a matter of hospitality. It's what Jesus would have us do."

レズビアンやゲイを聖職者として迎えることは、正義における問題であり、歓待がいかにあるかという問題である。そしてそれは神のご意志である。


[Evangelical Lutheran Church in America]

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようにはっきりと知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。


愛を追い求めなさい。




コリントの信徒への手紙一 13.8-13、14.1 (新共同訳「聖書」より)

諸徳の生ける絆(ein lebendiges Band der Tugenden)、生ける統一は、概念の統一とは全く別のものである。この生ける統一は、特定の関係に対して特定の徳を立てるのでなく、多種多様な諸関係の錯綜のうちにあっても分裂を起こさず純一なものとして現われる。しかもその外的形態は、無限に多様な様式をとって変様することができるのであって、二度と同じ様式をとることは決してないであろうし、またその統一の表現にしても、〔それに〕規則をあてはめることは決してできないであろう。
なぜならその統一は、特殊的なものに対する普遍的なものという形式をもつものでは決してないからである。──徳が法に対する服従を補完するものであるように、愛はもろもろの徳を補完するものである。諸徳のあらゆる一面性、排他性、制限は、愛によって止揚されている。〔そこでは〕有徳における罪(tugendhafte Sünde)や罪を負った徳(sündige Tugenden)というものはもはや存在しない。なぜなら、愛は、存在者たち自身における生ける関係だからである。愛にあっては、一切の分離、制限された関係は消え失せてしまっている。こうしてまた、諸徳における制限も止むのである。一切の権利がもはや止揚されたという場合に、〔法に対する服従の補完である〕徳にとって、どこにその余地が残っていよう。


こうしてイエスは、愛こそわが友人たちの魂たれ、と要求するのである。「わたしは新しい誠命をあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。〔わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば〕それによって人はみな、あなたがたがわたしの友人であることを認めるであろう」*3と。




G.W.F.ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』(伴博 訳、平凡社ライブラリー) p.147-148 *4

「十字架の神学」の「パラドクサ」、『ハイデルベルク討論』の神学論題は、次のテーゼで結ばれる。
「神の愛は、愛するに価するものを、見いだすのではなく創造する。人間の愛は、愛するに価するものから生じる。」(第二十八論題)




松浦純『十字架と薔薇 知られざるルター』(岩波書店) p.214 *5




[関連エントリー]

*1:Christian Church Membership in the United States: 1960-2002

*2:Lutheran gay clergy vote tests mainline churches

*3:ヨハネによる福音書 13.34-35

*4:

キリスト教の精神とその運命 (平凡社ライブラリー)

キリスト教の精神とその運命 (平凡社ライブラリー)

*5:

十字架と薔薇―知られざるルター (Image Collection精神史発掘)

十字架と薔薇―知られざるルター (Image Collection精神史発掘)