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「ソクラテスは美少年を好む」の解釈方法



TL のなりゆき上プラトン古代ギリシア関連の本からメモしておきたい。松浦明宏 著『プラトン形而上学の探求―『ソフィステス』のディアレクティケーと秘教』の第一章「プラトン解釈の方法」より。

プラトン形而上学の探求―『ソフィステス』のディアレクティケーと秘教

プラトン形而上学の探求―『ソフィステス』のディアレクティケーと秘教


このプラトンに関する本で注目したいのは、まず、著者が採っている「解釈の方法」についてである。著者が採用している、プラトンの著作には明示的に書かれていないことをプラトンの著作のみに基づいて考察する、という考察方法の吟味についてである。
「解釈の方法」──それは「解釈のルート(道)」であり、さらに解釈を行うための「基盤」、「足場」、「立脚点」、「視点」などである。そして「解釈のルート」が出来上がっているということは、解釈の足場が定まっているということを意味するであり、それに基づいてテキストを読めば、他の方法を「足場」にしてテキストを読んだ場合と、テキストの眺望が変わってくるはずだ。ここにおいて重要なのは、「解釈の方法」が「足場」であるということは、その上を歩く者(テキストを読み解く者)が、<それ>を意識しているとは限らないこと。「むしろ通常は、自分の足下には無関心なまま、見えてくる眺めの方に意識を集中している。

もちろん、テキスト解釈において、その「眺め」をよく観察すること自体は重要である。しかし、自分が採っている解釈の「方法」を自覚しないまま解釈の「眺め」にのみ気を取られていると、議論が空回りする可能性が高くなる。風景に喩えて言えば、北から見た富士山の上方に太陽が見えることがあり、南から見た富士山の上方に太陽が見えることがないとすれば、富士山を見た者のうち、或る者は「富士山の上方に太陽が見えることがある」と主張し、或る者は「富士山の上方に太陽が見えることはない」と主張するだろう。
だが、当然のことながら、この二つの主張を突き合わせて、富士山の上方に太陽が見える、見えない、と、いつまでも議論を戦わせていても、それがどこから見た富士山なのかを明確にしない限り、その議論は不毛である。





松浦明宏『プラトン形而上学の探求 『ソフィステス』のディアレクティケーと秘教』(東北大学出版会) p.10


或る意味で、これと同様のことが「プラトン解釈」にもあてはまる──と、著者は述べる。南から富士山を見る人々と、北から富士山を見る人々との間にある齟齬と同様に。両者はそれぞれの立場において、間違ってはいない。単に議論にならない、だけである。
ただし、そこに「より適切か」という問いが生じる──生じさせること。テキストを読むにあたって。テキストを解釈するにあたって。これは富士山の風景の問題とは別に、プラトン解釈においては、決められるはずだし、決めるべきである──それが著者の主張である。
例えば「ソクラテスは美少年を好む」という文の解釈について。このことは、

  1. ソクラテス肉体の美しい少年を好む
  2. ソクラテス精神の美しい少年を好む

と、例えば二通りの解釈ができる。どちらを採るかは解釈者次第である。しかし、「プラトン自身はどのように理解し意図してテキストの中に書いたのか」ということを念頭においた場合、解釈者次第であるといって済ませることができないだろう。この場合、「肉体の配慮」より「魂の配慮」の方をより重視しているというソクラテス像がプラトンの著作から読み取れるのだとすれば、その解釈は二つのうち、どちらが「より適切」なのか。むろん「ソクラテスは精神の美しい少年を好む」であろう。そのほうがより適切であり、より自然である。
そして重要なのは──可能ないくつかの解釈のうち、どれがプラトン解釈として「より適切なのか」という問いを導入することにおいて重要なのは、それによって自分がどのような立場から解釈を行っているのかということを「自覚」すること、なのである。自覚すること──自分の解釈の方法を、足下を、基盤を、立脚点を、視点を、である。テキストを読み解く(解釈する)ことにおいて。

ここで著者は思考実験を用意している。プラトン後期の初め頃に書かれたとされる『パルメニデス』のイデア論批判を俎上に載せる。つまり『パルメニデス』におけるイデア論批判の意味は、プラトンが中期に提示したイデア論

  1. 自己批判しそれを放棄したのか
  2. あるいは中期イデア論を保持しているのか

パルメニデス』におけるイデア論批判の要点は、例えば、以下のようなものである。

「それぞれの場合に応じてそれぞれ一個の形相(エイドス)があると君〔ソクラテス〕が想定する理由は次のとおりであると、私〔パルメニデス〕は思う。すなわち多数のものが大きくあると君に思われる場合だが、その際、それらの大きなものすべてを君が見つめると、そこにある一個の同じ形相(イデア)があるように、おそらくは思われるだろう。そのために、君は大(ト・メガ)が一つのものであると、考えることになる」
「おっしゃるとおりです」とソクラテスは答えた。
「それでは、大自体(アウト・ト・メガ)と、そのほかの複数の大きなものとだが、それらすべてをもし君が同様に心の眼で見つめたならば、どうなるだろう。再びまた、ある一個の大が現れてくるのではあるまいか。そして、この大によって、それらのすべて〔大自体とその他の複数の大きなもの〕が大きいと見えることになるのではあるまいか」
「そのようです」
「そうなると、以前の大自体とそれにあずかる複数の大きなものとは別に、それらを超えてもう一つの大の形相がまたも現れてくることになるだろう。そして、これらすべての上に、さらに別の一個の形相が現れ、この新たな形相によって、これまでのすべてが大きくある、ということになるだろう。そういうことで、君の言うそれぞれの形相というものは、もはや一個ではなくて、無限に多いという始末になるだろう」




パルメニデス』132a-133b(齋藤忍随『プラトン』、講談社学術文庫より p.361-262)
*1

すなわち、イデア論によれば、たとえば、(1)多くの大きなものを見渡して、それらに共通する一つの「大(のイデア)」があるとされる。すると、(2)それら多くの大きなものとその一つの「大」とを心眼で見渡せば、それら多くの大きなものとその一つの「大」とに共通する一つの「大」が現れる。となると、先の「大(のイデア)」の他に、もう一つ「大(のイデア」が現れることになるから、同様の手続きを繰り返せば、大のイデアは無数にあることになる。




プラトン形而上学の探求』 p.15

  1. Largeness is large.
  2. "Largeness is large."={Largeness}
  3. {Largeness} is large.
  4. "{Largeness} is large."=[Largeness]
  5. [Largeness] is large.
  6. ......
  7. ......


シンプルに考えてみよう。プラトンは『パルメニデス』において上記のようなイデア論批判を書いている。それゆえ、プラトン自身、『パルメニデス』において、自分が中期に立てたイデア論自己批判しているのだと考えなければならない──わたしたちは、まず、そのように解釈する。
もう少し突っ込んで考えてみよう。『パルメニデス』におけるイデア論の説明において、(1)の「多くの大きなもの」は肉眼で見られる感覚的事物である。一方、(2)の批判部分における「多くの大きなもの」は心眼で見られるものと考えられている。

だが、イデア論そのものの枠内で「心眼で見られるもの」といえば、多くの感覚的諸事物の成立根拠となるもののことであり、従って、上記の批判部分は、「根拠づけられるもの」(感覚的事物)と「根拠づけるもの」(イデア)との区別を無視することによって、無数のイデアを生じさせていることになる。それゆえ、このイデア論批判は批判として成立していない。




プラトン形而上学の探求』 p.16

だから、ここにおいて、わたしたちは、プラトンは後期に入っても中期イデア論を保持していた、と解釈する。


最後にもう一つ。老獪なパルメニデスが若きソクラテスを窮地に陥れるイデア論批判の例を対話編『パルメニデス』から引用しておきたい。これはどのような解釈になるのか。それによってどのような立場からそのような解釈を採っているのか、と自覚できるのか──と、僕は自問したい。

「……しかしパルメニデス」とソクラテスは言った。「実際は次のとおりだということが、私には、それはもう非常にはっきりとしてきました。つまり、明らかにこれらの形相はいわば典型として真実の世界に確固たる地位を占めており、他のものはそれらに似ていてそのうつし・類似物(homoiōma)なのです。そして、他のものの形相へのあずかりということですが、これは形相に類似せしめられるということにほかならないのです」
「となると、もし何かが」とパルメニデスは言った。「形相に似ているとすれば、その問題の形相のほうが、類似せしめられたその何かといわれた物に似ていないなどということがありうるだろうか。物のほうがその形相に似るようにさせられている限りにおいてはね。それとも似ているものが似ているものに似ていないなどというからくりでもあるのかね」
「ありません」
「だが、一方の似ているものが他方の似ているものとともに、一個の同じものにあずかるということ、このことは、それこそ必然ではないのかね」
「必然です」
「そして、それらの似ているものがともに、その同じものにあずかることによって似るのであるとすれば、その同じものこそ君の言う形相そのものであるということにならないだろうか」
「まったくそのとおりになります」
「そうなると、何かが形相に似ているとか、形相がその何かに似ているとかいうことは、ともに不可能だということになる。もしそうでなければ、一個の形相とは別に常に再び形相が現れてくることになるだろうし、その形相が何かに似ているとなれば、またもや別の形相がということになり、常に新たな形相が生じてくるという事態にはけっしてやむことがないことになる。もしも形相が形相自らにあずかるものに似ているとなればのことだが」



「しかしまた他方」とパルメニデスは言った。「これまでにあげたすべての難点やそれに類した他の難点を眺めて、もしも人がもろもろのあるものに形相があることを否認し、それぞれの場合ごとに一定の形相を明瞭に区分しようとしないということにでもなれば、いずれに自分の思考を向けるべきかがわからないことにさえなるだろう。あるものそれぞれごとに常に同一なるイデアがあることを否認してかかるのだからね。そして、そういうありさまでは人は問いと答えによる対話の効力を完全に破壊してしまうことになるだろう。……」




パルメニデス』 132d-135c (齋藤忍随『プラトン』より p.362-364)

*1:

プラトン (講談社学術文庫)

プラトン (講談社学術文庫)