HODGE'S PARROT

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終身在職権をもったラディカルたち



タイトルはカミール・パーリアが『セックス、アート、アメリカンカルチャー』(野中邦子 訳、河出書房新社)の中で言及していた、ロジャー・キンボール/Roger Kimball の著書より。大学に巣食う、高給取りで安定した地位を得ている左翼学者を批判したものだ。
そういえば……スラヴォイ・ジジェクも似たようなことを記していなたな、と「つぶやいて」みたくなった──ま、キンボールは保守派よりなので、ジジェクのような立場もその批判の中に含まれているかもしれないが、ま、いいか……つぶやきなので。

真のレーニン主義者と政治上の保守派とが共有するのは、どちらもリベラル左翼の「無責任」とも呼べるようなもの(連帯とか自由などの壮大な事業を唱えながら、具体的でしばしば「過酷な」政治的方策という形で代償を支払わなければならなくなると逃げ出す)を拒否するところである。
純正保守と同様、真のレーニン主義者は「行為への移行」を恐れず、自分の政治的企画を実現することの帰結は、たとえ不快なものであってもすべて引き受けることを恐れない。ラディヤード・キプリングブレヒトがたたえた)は、イギリスのリベラル派を馬鹿にしていた。彼らは自由と公正を唱えながら、ひそかに保守党が彼らの代わりに必要な汚れ仕事をしてくれることをあてにしていたのだ。同じことはリベラル左翼(あるいは民主社会主義)のレーニン共産主義への姿勢にも言える。リベラル左翼は社会民主主義的「妥協」を否定し、真の革命を求めるが、それに対して支払わねばならない現実の対価は回避し、美しい魂の姿勢をとり、自分の手は汚さない。
この偽の急進左翼の立場(人民のための真の民主主義を求めながら、反革命と戦う秘密警察もなく、自分の学界での特権は脅かされない)とは逆に、レーニン主義は〈保守〉同様、自分の選択の帰結を完全に引き受ける。つまり権力を握り、それを行使しうることが実際に意味することをよく知っているという意味で、本物である。




スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』(松浦俊輔 訳、産業図書) p.4

ひとが本当に恐れているのは、自分の要求が完全に受け入れられることである(……)。そして、今日の「ラディカルな」学者も、これと同じ態度(やるならやってみろという態度)に出られたら、パニックに陥るのではないだろうか。ここにおいて、「現実主義でいこう、不可能なことを要求しよう」という68年のモットーは、冷笑的な、悪意にみちた意味を新たに獲得し、その真実を露わににするといえるかもしれない。
「現実主義でいこう、われわれ左翼学者は、体制が与えてくれる特権をすべて享受しながら、外面的には批判的でありたいのだ。そのために、体制に対して不可能な要求をなげつけよう。そうした要求がみたされないことは、みな分っている。つまり、実際には何も変わらず、われわれがこれまで通り特権化されたままでいられることは確かなのだ」。


金融犯罪に手を染めている企業を告発したひとは、暗殺される危険に身をさらす。それに対し、同じ企業に、グローバル資本主義とポスト植民地主義における雑種的アイデンティティとの関係を研究するので金を出してくれないかと頼んだひとは、数十万ドルの資金を手にする機会にめぐまれているのだ。




スラヴォイ・ジジェク『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』(中山徹 訳、青土社) p.68


信じるということ (Thinking in action)

信じるということ (Thinking in action)

操り人形と小人―キリスト教の倒錯的な核

操り人形と小人―キリスト教の倒錯的な核

アメリカの新興学問」=クィアの横暴と欺瞞とセクシュアルハラスメントと薄汚い包摂のやり方に断固として抵抗するために