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「汝なにを欲するか?」



スラヴォイ・ジジェクについての本、トニー・マイヤーズ著『スラヴォイ・ジジェク』の第六章「なぜ人種差別は常に幻想なのか」を中心に、ジジェクの人種差別をめぐる分析についてメモしておきたい。

人種差別は「汝なにを欲するのか?」(Che vuoi?)という問いかけではじまる、とジジェクは主張する、とマイヤーズは語る。「汝は我にかくのごとく語る。だがそれによって汝は何を欲するのか。汝の目指すところは何か」。
ジジェクはこの「汝何を欲するか」について、例のごとく、ヒッチコックの映画『北北西に進路を取れ』を引き合いに出し例証する。

ロシアの秘密諜報局を攪乱するために、CIAはジョージ・カプランと名の、実際には存在しない諜報員をでっちあげ、彼の名を使ってホテルを予約し、彼の名で電話をし、彼の名で航空券を購入する、といった細工をする。すべてはロシアの諜報局に、カプランが実在しているように信じさせるためである。だが実際にはカプランは空無であり、持ち主のない名前である。映画の冒頭で、主人公のロジャー・O・ソーンヒルというごくふつうのアメリカ人がホテルのロビーにいる。そのホテルはロシアのスパイたちに監視されている。カプランなる謎の人物がそのホテルに滞在しているらしいからだ。ホテルのボーイが「カプラン様にお電話です、カプラン様はいらっしゃいますか」といってロビーに入ってくる。ちょうどその瞬間、まったく偶然に、ソーンヒルは母親に電報を打とうと思い、そのボーイに合図する。見張っていたロシアのスパイたちはソーンヒルをカプランだと思い込む。
ソーンヒルはホテルを出ようとしたところを、ロシアのスパイに誘拐され、人里はなれた別荘に連れていかれ、彼の諜報活動について尋問される。もちろんソーンヒルはそんなことは何一つ知らないが、彼が何も知らないと言っても、嘘をついているのだと見なされる。


(中略)


主体はつねに、他者にたいして彼を表象するシニフィアンに、縫いつけられ、ピン留めされており、このピン留めを通して、彼には象徴的委託が課せられ、象徴的諸関係の相互主観的ネットワークの中に一定の場所をあたえられる。問題はこの象徴的委託が究極的にはつねに恣意的だということである。その委託の性質は遂行的なので、主体の「真の」属性や能力を引き合いに出してそれを説明することはできない。そこで、この委託を課せられた主体は、自動的に、ある種の「汝何を欲するか」、すなわち〈他者〉の問いに直面することになる。〈他者〉は、あたかも、なぜ主体がその委託を課せられているかという問いにたいする答えを主体自身が知っているかのように、主体に問いかける。だが、もちろんこの問いには答えられない。主体は、なぜ自分が象徴的ネットワークの中のこの場所に占めているかを知らない。
〈他者〉の発するこの「汝何を欲するか」という問いにたいする主体自身の答えは、次のようなヒステリー的な問いでしかありえない──「私はなぜ私がそうであるとされているところのものなのか。なぜ私はこの委託を課せられているのか。なぜ私は……〔師、主人、王……あるいはジョージ・カプラン〕なのか」。要するに、「私はなぜ私がそうだとあなた〔〈他者〉〕の言うところのものなのか」という問いである。




スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』(鈴木晶 訳、河出書房新社) p.176-177 *1


この「汝なにを欲するか」という問いかけが、どのようにして人種差別の問題と結びつくのか。例えば1988年のアメリカの大統領選挙において。最初は黒人候補者のジェシー・ジャクソン/Jesse Jackson が優勢だったが、じきにマスコミは「ジャクソンの真の狙いは何か」という問いを発しはじめた。この問いの「背後・裏面」には人種差別がある──なぜなら、他の候補者たちには「この問い」は決して向けられなかったからだ。

すなわち、この「汝何を欲するか」は、人種差別のもっとも純粋な形、いわば蒸留された反ユダヤ主義において、もっとも激しく噴出するのである。反ユダヤ主義的な視点からみれば、ユダヤ人というのはまさに「本当は何を欲しているのか」がまったくわからないような人間である。つまり、ユダヤ人の行動はつねに、なにか隠された動機によって導かれているのではないかと疑われる(ユダヤの陰謀、世界征服、非ユダヤ人の道徳的堕落、等々)




イデオロギーの崇高な対象』 p.179-180


ユダヤ人はうさんくさい──というのも、ユダヤ人が何を欲しているのかわからないからだ、ユダヤ人の意図や欲望が、「われわれには」不明瞭だからだ、と。だから「われわれ」は、ユダヤ人への「汝なにを欲するか?」がもたらす不可解な気分を解消しようとして(空無を満たそうとして)、自分勝手な想像的なシナリオをでっちあげる。そして「隠れた意図」──ユダヤ人がほんとうに欲しているのはこれだ(ユダヤの陰謀、世界征服……)──があるものとして、ユダヤ人の行動を説明する。

このシナリオ、「汝なにを欲するか?」への答えは、幻想である。幻想の機能とは、自分が理解できる答えを提供して、「汝なにを欲するか?」という問いが生み出す空虚さを埋めようとすることだ。われわれは、幻想があるおかげで、〈他者〉が本当はわれわれから何を欲しているのかを知らずに途方にくれる、ということがなくなるのだ。




トニー・マイヤーズ『スラヴォイ・ジジェク』(村山敏勝 訳、青土社) p.162-163 *2


幻想/空想は、間主観的なものである、とジジェクは述べる。幻想が個人にとって固有なものであっても、幻想自体は、つねに間主観的な状況から生み出される。主体同士によってのみ生み出される、と。
人種差別主義者は、ユダヤ人の欲望の深淵に直面すると、ユダヤ人は世界征服を謀っており、極悪非道な陰謀の中心にいるといった幻想を構築して、「ユダヤ人の欲望」(他者の欲望)を理解する。幻想(空想)の光景の中で、欲望はみたされ、満足させられるのではない。幻想によって欲望が構成される。その対象を与えられる。すなわち、幻想を通じて、「いかに欲望するか」を学ぶのである。

空想(幻想)のパラドックスはこの仲介的な位置に存する。空想は、われわれの欲望を調整する枠組みであると同時に、「汝何を欲するか」にたいする防衛、つまり〈他者〉の欲望の空隔と深淵を遮蔽する幕である。このパラドックスを限界まで──トートロジーになるまで──推し進めれば、欲望そのものが欲望にたいする防衛であると言うことができよう。


(中略)



空想がどのように機能するかは、カントの『純粋理性批判』を引き合いに出して説明することができる。欲望の経済における空想の役割は、知の過程における先験的図式の役割に似ている。カントにおいて、先験的図式は媒介である。すなわち経験的内容(経験の偶発的・内世界的・経験的対象)と、先験的範疇のネットワークに組み込まれる、そのメカニズムの名前である。空想の場合もこれと似たメカニズムが働いている。経験的で、実在的にあたえられた対象が、いかにして欲望の対象になるのか。どうしてそれがあるX、すなわち「それの中にあってそれ以上のもの」であり、それをわれわれが欲望するに値するものにする、なにか未知の特質をもつようになるのか。それは、空想の枠組みに入ることによって、つまり、主体の欲望に一貫性をあたえる空想の光景に包含されることによって、である。





イデオロギーの崇高な対象』 p.185-186


幻想/空想の枠組みは、現実に対する「ある特定の」主観的な見方を提供する。この枠組みは、隅々まで欲望で満たされている。欲望はつねに「利害関係がつきまとっている」。「利害関係」、すなわちそれはつねに「ある一つの視点」を前提にしている。

それは一枚の絵の歪像 anamorphosis の点である。それは、まっすぐに見ると無意味な染みにすぎないのに、横のほうの、厳密に決められた地点から見ると、突然、よく知っている輪郭をあらわす。




スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶 訳、青土社) p.172 *3


ハンス・ホルバインの絵画『大使たち』を斜めから見ると「無意味な染み」が頭蓋骨として現れる。歪像(アナモルフォーシス)は絵の意味を完全に変えてしまう。同様に、幻想は、突出しているある要素を指し示す。「突出した」要素とは、剰余的な知である。剰余的な知は、まなざしを汚染し、観る者を主観化し、絵を客観的・中立的に眺めることを不可能にする。歪像が表象しているのは、主観性そのものである。主観性とはまさに剰余的な知なのである。
トニー・マイヤーズはジジェクの言う幻想について次のようにまとめている。

  • 幻想は、'Che vuoi?'という問い、首尾一貫していない〈他者〉が、ほんとうはわたしになにを欲しているのかという問いのなかに現れてくる〈他者〉の欲望に対する、防衛として生み出される。
  • 幻想は、われわれが現実を見るときの枠組みを提供する。幻想は、一つの視点を前提としていて、世界の客観的な説明を拒否しているという点で、歪像的である。
  • 幻想は、われわれひとりに属する独自のものである。幻想は、現実の主観的見解を可能にし、われわれを個人にする。そのようなものであるから、幻想は、他者の侵入にとりわけ敏感である。
  • 幻想は、われわれが享楽を組織し飼いならす手段である。(『スラヴォイ・ジジェク』 p.188)

そして──とマイヤーズは、人種差別が発動されるのは、この幻想と幻想の対立が原因であるとジジェクの主張を説明する。

人種差別の標準的な分析では、人種差別主義者たちは誤った教育を受けたか、無学で、犠牲者たちについて無知であることになっている。人種差別主義者が犠牲者となる人種を客観的に見て、彼らをよく知りさえすれば、偏見もなくなるだろう、とこの理論は続ける。たとえば、もしドイツの人種差別主義者が、トルコ移民がいかにドイツに貢献しているかを理解したら。フランスの人種差別主義者が、アルジェリアの共同体がフランスの名のもとにいかに文化的に重要な貢献を果たしてきたかを知りさえしたら。あるいは、イギリスの人種差別主義者が、第二、第三世代のインド人たちが英国の健全な発展にいかに貢献してきたかを理解することができさえしたら。しかしジジェクによれば、たとえ人種差別主義者たちがそういうことを理解したとしても、それでもなお彼らは人種差別主義者のままだろう。なぜだろうか?


答えは、人種差別を受ける主体は、個々の人間からなる客観的な集団ではなく、幻想上の人物像だからである。たとえば1930年代に、アーリア人種をひそかに陥れようとする国際的な陰謀があってその中心はユダヤ人である、などという考えはばかげている、という合理的な議論をしても、ナチスが説得されることはなかっただろう。ジジェクによると、ユダヤ人はそんなことはしていないと証明する経験的な証拠を、ナチスに示すことはできない。彼らは……現実に対する客観的な見かたを云々していたわけではないからだ。むしろ彼らは、ユダヤ人を幻想の枠組みで見ていた。そのため、彼らはそうした幻想の枠組みと、現実はどのようなものかという視点を対比することができなかった。幻想の枠組みの肝心な点は、なによりもまずそれがあなたの現実を構成していることだからだ。だからジジェクの推測では、もしあなたがナチで、真に友好的で「善良な」ユダヤ人が隣に住んでいても、あなたは自分の反ユダヤ主義とこの隣人とのあいだに、いかなる矛盾も経験しないだろう。むしろ、隣人が表面上はきちんと見えることこそ、ユダヤ人の危険を示す最高の証拠である、と結論を下すだろう。あなたは幻想の窓を通じてものを見ているので、反ユダヤ主義と一見矛盾するように見える事実こそが、まさに反ユダヤ主義を支える議論となりうるのである。




スラヴォイ・ジジェク』p.179-180

人種差別の基本的幻想は次の二つである。

  • 民族的「他者」は、享楽を入手する未知の、特権的な方法を知っている。
  • 民族的「他者」は、われわれの享楽を盗もうとしている。

ここでわれわれは、極端な身体的暴力や、領土の征服や、盗みを扱っている。象徴による暴力によって、敵の象徴の宇宙を破壊すること、「文化を殺すこと」なのだ。その結果、「共同体が自らについて自ら語ってきた物語がもはや意味をなさなくなる」。そして、もっとも根本的なレベルで、他者に含まれる耐え難い余剰快楽、a に一撃を加えようとする努力によって。憎悪はその対象の「現実の特性」には限定されず、その本当の核、対象a、「対象の中にそれ自身以上に」あるものを標的とするものである以上、憎悪の対象は、厳密な意味で、破壊できない。われわれが現実の中にある対象を破壊すればするほど、その至高の核がわれわれの前にますます強力に立ち上がってくるのである。

……


この意味で、戦争は常に幻想どうしの戦争でもあるのだ。




スラヴォイ・ジジェク『快楽の転移』(松浦俊輔、小野木明恵 訳、青土社) p.133-134 *4


だからジジェクは──とマイヤーズは、人種差別と闘うには、

  • 1 われわれはできるかぎり他の個人の幻想空間に侵入しないようにしなくてはならない。
  • 2 国家を、市民社会の幻想に対する緩衝装置として利用しつづけるべきである。
  • 3 幻想の裏側にはなにもないことを示すために、幻想を横断し、通り抜けなければならない。

と主張している。
(1)は、複数の幻想は究極的には平和に共存できない──和解の方法はない──ので「倫理」として他者の幻想空間にみだりに侵入すべきではないと。(2)は、国家は幻想同士のぶつかりあいがもたらす「最悪の影響」を軽減することができるということ──仮に市民社会が、国家から制約をうけずに支配することが許されたら、世界のほとんどは人種差別主義者の暴力に屈することになるだろう。人種差別の暴力を抑制するのは、国家の強制力しかないのだ。(3)は、人種差別主義者の根底にある主張「もし彼らがここにいなかったら、生活は申し分ないものになり、社会はまた調和をとりもどすだろう」に対し、「彼らがここにいようといまいと、社会はつねに-すでに分裂している」と応答しようと。幻想とは、イデオロギーがそれ自身の失敗をあらかじめ計算に入れるための手段である──「ユダヤ人」はファシズムにとっては、おのれ自身の不可能性を計算に入れ、表象するための手段である。幻想の背後・裏面には何もなく、だからこそ幻想がこの「空無」を隠蔽しているのだから──それ自体で完全であるような全体社会の不可能性を覆い隠しているのだから。




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