HODGE'S PARROT

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R・A・ラファティ『クロコダイルとアリゲーターよ、クレム』



以前、書店で『九百人のお祖母さん』という本を見かけたことがある*1。カヴァーのイラストが強烈で目を引いた。でもSFの人か……と、その時の僕は思い、本を戻した。
その R・A・ラファティ(R. A. Lafferty、1914 - 2002)の短編が『ミステリマガジン』に載っていた。『クロコダイルとアリゲーターよ、クレム』(Camels and Dromedaries, Clem)。『ミステリマガジン』に収録か……と、今度の僕は、それを読んでみた*2
読んでみて……あ、この人って……と思って Wikipedia を参照したら、やはり R.A.ラファティローマ・カトリックの人だった。プロジェクト・グーテンベルクで公開されている彼の作品も『テキサス州ソドムとゴモラ』というタイトルだし。
Sodom and Gomorrah, Texas by R. A. Lafferty [Project Gutenberg]


で、『クロコダイルとアリゲーターよ、クレム』は、クレム・クレンデニングというセールスマンに分身が現れる──というより、一人のクレムが分割して二人になってしまった、というストーリーである。二重人格でもなく、彼に似たもう一人の人物が登場するのでもなく、ジキルとハイドのように善の部分と悪の部分に分裂するのでもなく、同じ人生の歴史を持つ=「共有する」クレム・クレンデニングが、突然、二人存在することになってしまった、ということである。「オマエは誰だ」「オレだ」、「もしこいつがオレなら、オレはいったい誰だろう?」……という思考実験(ホラ話)が楽しめる。

で、このオレ(クレム1)とオレ(クレム2)をめぐる生活と意見に、キリストだとかアウグスティヌスだとかチェスタトンだとかの戯言が挟まれる。それが、気が利いている。例えば〈トゥー・フェイス・バー・&グリル〉という「料理店と酒場の二つの顔をもつ店」での会話。「マタイによる福音書」における二重性が指摘される。

どうしてマシューにはロバが二頭出てくるんだろうな?」と男はたずねた。
「マシューって誰?」クレムはきいた。「何の話だか、よくわからないんだがね」
「それはもちろん、聖書の二十一章一節から九節の件さ」と男。「マシュー(マタイ)のやつを唯一の例外として、ほかの福音書にはどれもロバは一頭しか出てこない。そこんとこを考えたことがあるかい?」
「いいや、チラッとも」
「そうか。それなら、どうしてマシューには悪霊につかれたのが二人いる?」
「ええっ?」
「八章二十八から三十四節さ。ほかの伝道者のところには狂人はひとりしか出てこない」
「はじめ気のふれたのはひとりだけだったのが、隣で飲んでいたやつを発狂させたのかもしれない」
「それはありうる。──なんてのは冗談だろうがな。しかし、どうしてマシューには盲人が二人いる?」
「たまげたな、もう。そりゃ、いったいどこに?」とクレムはきいた。
「九章二十七から三十一、それに二十章二十九から三十四さ。ほかの福音書では、盲人はいつもひとりしかいない。どうしてマシューにだけ、こう物がダブるんだろう? ほかにもいろいろと例はあるぞ」
「それは多分、乱視だったんだろう」
「ちがうね」と男はささやいた。「やつはわれわれの仲間だったんだ」
「その”われわれ”というのは、いったい何のことだね?」とクレムはきいたが、すでに自分の症例が唯一無二でないことにうすうす気づきはじめていた。もしかりに、そういう現象が百万人にひとりの割合で起こっているとしたら? それでも国中に、分裂人間は数百人出てくるわけで、彼らは救いを求めて〈トゥー・フェイス・バー&グリル〉のような店に集まってくるものなのだ。そう思ってながめれば、たしかに店の客たちには、みんなどこかしら脱けたような、割れたようなところが見えた。
「で、これは覚えておいたほうがいい」男はつづけた。「残りの使徒のうち、ひとりの名前というか、あだ名は”双子”という。しかし、そいつは誰と双子なんだ? オレが思うに、すでに聖書の時代には、こういう不可解な分裂現象が始まっていたんだな」




R・A・ラファティ「クロコダイルとアリゲーターよ、クレム」(伊藤典夫 訳、早川書房『ミステリマガジン』1992年5月号 No.433) p.45

また、若者とも老人ともつかぬ男=若者老人(実は司祭であった。そして彼も分割人間だった)との会話。人間は意識をもっている、それが人と動物を分けている。ところで意識とは二重存在だ。見るものの主体であって、たんに知であるばかりか、知をわきまえた知でもある。だから、人の人格はその本質において二重なのだ。一方、動物は単純で一元的だ、再帰的意識に欠けている……

「私は必ずしもそうは思わないな。しかし、動物の一元性とひとの人間性のあとに来るものは何だろう? チェスタートンのとんでもない文章がある──『われわれ三位一体論者の知るところでは、神は孤独であるのはよくないことである』──しかし神のときも、われわれとおなじだったのか? ある日、自分が三人いると知って、あわてふためいたのか? そのショックとどう折り合いをつけたのだろう? そもそもそれができるのか?




「クロコダイルとアリゲーターよ、クレム」 p.46

さらに「半分こ」のアウグスティヌスマニ教の二元論、そして二人のキリスト……思考実験(ホラ話)は、いよいよ壮大になっていく。
しかし平凡なセールスマンのクレム1とクレム2たちは──妻のヴェロニカと三人で事態を収拾することを決意する。クレム1とクレム2が一体化して一人になる(戻る)か、それとも、ヴェロニカが二人に分裂・分割するか……彼らは後者を選ぶ。「分割的な思考」をすることによって、「ペアになったものを考えて」……クロコダイルとアリゲーター、ムササビとモモンガ、ウミウシアメフラシ……かくして三人は「ありとあらゆる分割思考、二分思考」にはげむ、心理学と生物学の深奥に分け入り、「街でいちばん名望のある奇人変人学者」を招いてアドバイスを受けて。そしてついにその「二分法思考」が功を奏して……。

……なるほどね。面白かった。

*1:

九百人のお祖母さん (ハヤカワ文庫SF)

九百人のお祖母さん (ハヤカワ文庫SF)

*2:今ではこの短編小説は『つぎの岩につづく』(ハヤカワ文庫SF)に収録されているようだ。

つぎの岩につづく (ハヤカワ文庫SF)

つぎの岩につづく (ハヤカワ文庫SF)