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クイウス・レギオ、エイウス・レリギオ


ローマ・カトリック教会の歴史

ローマ・カトリック教会の歴史

エドワード・ノーマン著『ローマ・カトリック教会の歴史』は、図説(An Illustrated History)と銘打っているように絵画や美術品、遺跡の写真が数多く収録されていて、宗教美術史の本としても見応えのあるものになっている。
しかも、その中には、敵対勢力=プロテスタント側が描いた風刺画や、聖職者というよりもまるでマフィアのボスのようなローマ教皇肖像画*1、「旧ソ連時代の社会主義リアリズム芸術を先取りした」と著者が(思わず?)称えるようなポスター*2など、普段美術書などであまり見かけることのない「貴重な」図版もあって、なかなか興味を惹いた。
改めて、カトリックは、視覚芸術(音楽も、だが)──つまりそういったメディアに訴え、そしてそこに強みを発揮してきたのだな、と思った。


フランシスコ・デ・スルバラン/Francisco de Zurbarán 『聖ヒエロニムスの誘惑』(La tentación de San Jerónimo、1639年)



で、歴史を記述する文章にも興味を惹いた部分があった。第4章の「宗教改革」に関するものだ。改革・革命を仕掛けられた側とでもいうのか、つまりカトリック側から見た宗教改革についての率直な見解が、普段あまり見かけないこともあって──あるいは見過ごしている部分もあって、実際の事実関係を整理するうえでも「貴重な」判断材料になりうると思った。メモしておきたい。


カトリック教会は、実のところ、中世を通してずっと「改革」を進めてきた。なにもプロテスタント側がいきなり「改革」をしたのではない。時代の変化(国際状況、経済、社会、科学技術)とそれに対する教会側の適応に混乱が生じたのは事実ではあるが、それは、天使ではなく人間が教会を運営している以上、そうした混乱は避けられないものであった。
──そのようにノーマン氏は、まず、「宗教改革」=「大惨事」という出来事を総括をする。
具体論に移ろう。

統治者の信仰がその領地の信仰となる(クイウス・レギオ、エイウス・レリギオ)
プロテスタント側が──あるいはプロテスタント側の宗教改革が「成功」をおさめることができたのは、ひとえに国王や皇帝の後ろ盾があったからに他ならない。キリスト教による普遍社会という概念は、すでに崩壊していたのである。実際、教皇と王や皇帝との間で至上権が争われていた──ヨーロッパ諸国の王たちは、封建諸侯の権力を吸い上げながら個人としての権力を強めていた。世俗の王の権力と教皇の権威とのあいだには摩擦が生じていた。世俗の権威に対する教皇の至上権(プレニドゥド・ポテスタティス)についての議論は片隅に追いやられ、教会はすでに「霊性によって統治される普遍的な帝国」ではなくなっていた。ローマ皇帝統治権は、ローマ教皇ではなく、ヨーロッパ君主が引き継ぐことになった。
一方、マルティン・ルターは、世俗の君主たちの保護と承認を得なければ、カトリック教会からの離脱は不可能だと見抜いていた。ルターら改革者と各国の君主は「カトリック教会からの離脱」という点で利害が一致していた。宗教界の変革は、神聖君主たちにとって、国家や王朝の野心を実現するための重要な契機であった。


『痴愚神礼賛』と知識人
「16世紀の初頭には、知識人のあいだに宗教改革への意思統一のような雰囲気が形成されていた」。例えばエラスムスは『痴愚神礼賛』を書いてカトリック教会を激しく非難した。さらに彼は『キリスト教兵士提要』を出版し大きな影響力をあたえた。しかしながら、ノーマン氏によれば、それでもエラスムスは終生、カトリックにとどまった。また、エラスムスギリシア語の新約聖書ラテン語に翻訳し、このことによって、これまで定本であった聖ヒエロニムスのラテン語訳聖書(ウルガタ聖書、Vulgate)の欠陥が明らかになった。それでもエラスムスはルターのような「革命家」ではなかった。典型的な学者・知識人であり、カトリックプロテスタントの両方から疑いの目を向けられた人物であったのだ。そもそも『痴愚神礼賛』に代表されるカトリック教会批判にしても、それは彼のありとあらゆる方面への知的言論活動のなかの、ほんの一部分でしかなかったのだ──しかし教会批判者としての活動ばかりが誇張されている、というのがノーマン氏の見方だろう。
1522年にルターがドイツ語版の新約聖書を出版するよりも前に、ドイツ語訳では14種類、オランダ語訳では4種類の聖書がすでに存在していた。こうした「開かれた聖書」の存在はプロテスタント側の活動の成果だけによるものではない(プロテスタント側はそう考えているが)──新しく登場した活版印刷術によって、カトリック教会の認可を受けない聖書があふれるようになったのだ。

聖書の翻訳に関しては、カトリック側の学者もむろん、「新訳」が必要だと感じていた。だが、カトリック側が翻訳に慎重になっていたのは、中世の異端派が「聖書を誤って理解」したり、「奇怪な解釈を加える」などの事例が報告されていたからだ。さらに……

当時は、信徒が聖書の知識に触れるようになると、カトリック教会の伝統的な教えとのあいだの矛盾があきらかになるという考えが一般に信じられていた。パドヴァのマルシリオのような開明的な思想家でさえ、教皇の至上権を否定するために聖書を引用していたのである。



エドワード・ノーマン『図説 ローマ・カトリック教会の歴史』(百瀬文晃 監修、創元社) p.118


庶民の経済活動とスコラ学者
カトリック教会は利子付き貸出を禁止していた。そのカトリック教会の姿勢が批判を浴びるようになってきた。というのも、イタリアやドイツの自由都市では銀行業が盛んになってきたからである。それが社会の矛盾を引き起こしていた。ダンテの『神曲』の注釈者ベンヴェヌート・ダ・イモラが記したように「高利を課す者は地獄に堕ち、利子を取らない者は破産の危険を背負いこむ」状況が現実のものとなっていた。
それでも、トマス・アクィナスを始めとするスコラ学者たちは、利子を課すことを激しく非難していた。彼ら学者は、旧約聖書の一節「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利化しのようになってはいけない。彼から利子を取ってはならない」(出エジプト記/22:23)や「同胞には利子を付けて貸してはならない」(申命記/23:20)を引き、さらにアリストテレスの『政治学』まで参照して利子に関する禁止令を支持した。
この利子に関する問題によって「キリスト教の教会は信者の生活実態を把握していない」という一般的な意識が広まることになってしまった。利子に関する禁止令はベネディクトゥス14世によって1745年にようやく廃止されることになる。


夫婦間の訴訟
一般信徒による教会への反感は、結婚に関する教会法の適用によって引き起こされていた。信徒にとっては重大な問題であった。にもかかわらず、この件においても教会は「信者の生活実態」を把握していなかった。夫婦間の訴訟は、教会裁判所に提出される事例のなかで、もっとも件数が多く、もっとも解決が難しかった。そもそも「ディヴォルティウム(離縁)」という婚姻の無効が条項に存在していない。

問題を複雑にしていたのが、結婚はどの社会階層においてもほぼすべて、物質的な合意に達したうえで成立したということだ。この時代にはまだ、結婚が愛というロマンティックな考え方に左右されることはなかった。また平均寿命が短かったため、夫婦関係がもしうまくいかなかったとしても、現在ほど長期にわたって我慢して生きていくことにはならなかった。



『図説 ローマ・カトリック教会の歴史』 p.117

だから教会の対応が遅れてしまった……とノーマン氏は述べるのだが、この「夫婦間の訴訟」がイングランドにおけるカトリック教会からの離脱、すなわちヘンリー8世の離婚問題に端を発した英国国教会の成立を導いたのは言うまでもないだろう。


イングランドによるプロパガンダ
後世の宗教改革に対する評価は、当時のイングランドが仕掛けたプロパガンダの影響が大きい、とノーマン氏は見ている。そこには敵対していたスペインとの覇権争いがあった。

イングランドプロテスタントは、スペインのカトリックに対する批判を展開したが、それはやがて英語圏におけるカトリック教会の評価として広く定着した。そうした反カトリック的感情は、イングランド人としての国民意識の重要な要素となり、政治的な団結をうながすうえでも大きな役割をはたした。
スペインのカトリック内部に有力な改革運動が存在したことをあえて無視するのも、イングランド人の伝統である。


(中略)


イングランドの民衆の教皇に対する反感は、19世紀の終りまで、いや、さらにその後まで解消されることがなかった。そうした根深い反感は、ある意味で理由をもっていたといえる。たとえば1563年に出版されたジョン・フォックス(1515〜1587年)の『殉教者列伝』は、カトリック教会の迫害を受けたプロテスタントの犠牲者の逸話を記した書物で、これを参考にして「反カトリック嘆願('No Popery' litany)」*3が生まれている。1570年には教皇、聖ピウス5世(在位1566〜1572年)が勅書『レグナンス・イン・エクスチェルシス(天上より統治する)』を発布して、イングランド女王エリザベス1世を正式に破門している。さらに1588年には、スペイン王フェリペ2世イングランドカトリック国に復帰させるために無敵艦隊アルマダ)を派遣している。




『図説 ローマ・カトリック教会の歴史』 p.121-122

ここにおいて、異端審問といえば必ず「スペインの」という言い方がされることや、後年の通俗的プロテスタント思想に「イエズス会的な策略」という記憶が刷り込まれることになったのだという。エドワード・ノーマン氏の文章から読み取れるのは、「イングランド、恐るべし」、である。

19世紀になると、自由主義の政治家や宗教界の反カトリック勢力は、異端審問所の「罪」こそが「カトリック教」の邪悪な性質を示す最大の証拠であると指摘するようになり、それに関する大衆向けの印刷物がヨーロッパや北アメリカの出版社から大量に発行されるようになった。




『図説 ローマ・カトリック教会の歴史』 p.123-124

ちなみにカトリック側における「対抗宗教改革(反宗教改革)」──この言葉にしてもプロテスタンティズムに対する反動を連想させる、とノーマン氏は指摘する──の精神を体現しているのは、アヴェラの聖テレサ聖テレジア)だという。彼女は1562年にスペインに跣足カルメル会を創立し(改革カルメル会)、修道生活と社会奉仕をともに目的に掲げた。聖テレサは、神秘主義者であり、かつ、実践的な改革者であった。

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ/Gian Lorenzo Bernini 『聖テレジアの法悦』(Ecstasy of St Theresa、1652年)


「改革」はなにもプロテスタント側の専売ではない、カトリック側もつねにすでに「実践的な改革」を行っていたのである。

対抗宗教改革は実のところ、「自然な成り行き」だったといえる。そこで行われた改革は、中世後期の考えから生まれたものであり、また国民国家の台頭によって誕生したヨーロッパという地域でその形と組織をあたえられたものだったからである。トリエント公会議のような対抗宗教改革の性質をもった試みは、ヘンリー8世の離婚問題やルターの『95カ条の提題』がなかったとしても起こっていたはずである。




『図説 ローマ・カトリック教会の歴史』 p.136

*1:例えば1870年の『VANITY FAIR』誌に掲載されたピウス9世の肖像画とか

*2:1891年に教皇レオ13世が発布した回勅『レームル・ノヴァールム』を祝ったもの

*3:A Brief History of No-Popery [THE CHURCHinHISTORY INFORMATION CENTRE]
また、チャールズ・ディケンズの小説に登場する「カトリック反対」を旗印にしたプロテスタント連盟の指導者と、国家の問題について、藤井晶宏氏の論文がウェブにあった。→ 『バーナビー・ラッジ』にみる国家の姿 [ディケンズ・フェロウシップ日本支部年報]