HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

記憶屋ジョニー




先日、ロバート・ロンゴ/Robert Longo と「スーツ・ノワール」についてちょっと書いたが……そうだ、ロンゴといえば、彼が映画監督として撮った映画を観た記憶が甦った。『Johnny Mnemonic』(ジョニー・ネモニック)、略して『JM』。ウィリアム・ギブスンWilliam Gibson、1948)の短編小説『記憶屋ジョニイ』を映像化したものだ──SF、サイバーパンク、電脳空間、近未来……"noir prophet" of the cyberpunk subgenre of science fiction. *1
johnny mnemonic

観ていて、とても楽しかった記憶がある。ギブスンのSF小説──そこで展開されている予言めいた思想──をとくに熱心に信望していたわけではないが(それに今となっては陳腐さを免れえない未来の設定も指摘されうるだろうが)、しかし、なによりも、キアヌ・リーヴスをこれほどまでに魅力的に撮った映像作品は、それほどないと思う。ドルフ・ラングレンを出演させていることも、個人的な評価を上げている。そうだ、特殊な技能を持った、しかもドラッグを嗜むイルカも、その世界には、存在していたのだった。
僕はこの映画……好きだ!

YouTube の四角い界面を観ながら記憶を手繰ってみると……さすが「スーツの」ロバート・ロンゴだな、と思う。ビジネス・スーツという戦闘服を着た「粗雑にして繊細な」男を、抜群に魅せる。"ULTIMATE HARD DRIVE"という言葉にも、なにやら惹起させるものがある。
Johnny Mnemonic - The infamous "Room Service" scene


それと「今となっては陳腐さを免れえない未来の設定」と書いたが、実は、このレトロなフューチャーさこそが、個人的にとても惹かれる物・事なのだ。僕は、オンド・マルトノテルミンのようなクラシックな電子楽器の音色や、カールハインツ・シュトックハウゼンの《少年の歌》やルイジ・ノーノの《コントラプント・ディアレティコ・アラ・メント(思考における弁証法的対位法)》などの、もはや古典ともいえる実験的な音響も大好きだし、クラフトワークKRAFTWERK の音にもとびきり魅力を感じている。
だから、次のような、キアヌ(K)が冒険をやってのける電脳世界──ピート・モンドリアン風のカラフルで幻覚的な映像と「ピコピコした音!」のノイズの組み合わせにも、グッとくるものがある。
Johnny Mnemonic Future Internet


ちなみにシュトックハウゼンの《少年の歌》(Gesang der Jünglinge、1955-56)は、こんな感じの音楽。これこそ「未来的」なサウンドだ。
Stockhausen: "Gesang der Junglinge"


Wikipedia によれば、『Johnny Mnemonic』は、DOS とウィンドウズ3.x 対応のコンピューター・ゲーム(THE INTERACTIVE ACTION MOVIE)にもなったのだという。1995年、SONY よりリリース。

"The interactive movie concept was taken a stage further by this game, which completely dispenses with a visible interface. All you will see and experience is the storyline and its realisation, taking in 2500 scenes inspired by William Gibson's short story.


http://www.amazon.com/dp/1566731313/



そういえば、今となっては(今日では)、レトロフューチャーなメディア論も、過去のSF小説を読むような「楽しさ」があるな。しかも、そこでは、今では普通に使用している「用語」の本来の定義も、そうだったのか! と改めて確認させてくれるし。

……コンピュータの作り出す幻覚的な宇宙空間は、数を特定することはできるが、しかしいまだ未知の、互いに連関しあっている諸空間の集まりによって成立している、ということだ。それらの空間のなかでは、ひとつひとつの要素が意味を持っている。
ケイスは──ウィリアム・ギブソンの独創的な小説『ニューロマンサー』の主人公だが──コンピュータ版『果てしない物語』(ネバーエンディング・ストーリー)のバスティアンだ。彼は現実世界を隠遁してサイバースペースへと逃れていく。「マトリックス」(肉体を離脱した意識の共感覚幻想を作り出す巨大コンピュータの配電図だ)「のルーツは、素朴なアーケード・ゲーム、さらには初期の映像(グラフィックス)プログラムであり、頭蓋ジャックによる軍用実験」である*2。ケイスは情報空間に迷い、プログラムの夢を追う。これがサイエンス・フィクションであるとすれば、その意味するところは、今日では空想(フィクション)自身が学問(サイエンス)の凝集状態となったということだろう。


サイバー・スペースのマトリックスは、現実に、軍事的な脳外科医学の探求と、プリミティブなコンピュータ・ゲームの精神から誕生した。コンピュータ・ゲームで冒険をするということは、いわばそのゲームソフトの作者の脳のなかを旅するようなものである。彼の頭から生じたコンピューター世界は、論理的に構築されているが、全体を見渡すことが原理的にできない。そのため、ゲーマーの側には、次から次へと発見したい、ブラックボックスに光を当てたい、という麻薬に対するような欲求が生じる。要するに、優れたゲーマーは自らをアルゴリズムと化す。そして今日ではこれこそが、〈危険を犯し冒険をやってのける〉ということなのだ。




ノルベルト・ボルツ「インターフェース」(『グーテンベルク銀河系の終焉 新しいコミュニケーションのすがた』より、識名章喜&足立典子 訳、法政大学出版局) p.123-124 *3

さらに、「界面」(インターフェース)という概念そのものに、デジタル以前からその先駆けがある。トイレの側壁にある、ゲイが自分の体の一部(ペニスあるいは肛門)を向こうにいる名も知らぬ相手に提供すると言われる四角い穴も、境界にある機能の一つの形ではないか。主体はそれによって、原初のファンタスムの対象としての部分的対象に還元されるのではないか。




スラヴォイ・ジジェク「電脳空間、あるいは存在の耐えられない閉塞」(『幻想の感染』より、松浦俊輔 訳、青土社) p.229


今となっては、なんか楽しいね!(経験論でいえば、アレは大抵丸い穴だけどな……しかも、「冒険をやってのける」前に、まず、そこから覗いて彼の「全体像」を確認するのだけれどもね)

フランツ・カフカの『城』は、主人公(K)の城という不可思議の権力のありかにたどり着こうという必死の試みを描いたものである。最近出たCD-ROMの『城』は、このカフカの小説をインタラクティヴなゲームにしている。プレーヤーは、不運なKを導いて、謎の門番クラムのところを通し、城の暗い暗い廊下へと入れる……。
ここで大事なのは、このアイデアの通俗性を嘆くことではなく、むしろ逆である。Kが際限なく城と接触しようとする試みと、インタラクティヴなコンピューターゲームの決して終わらないところの間にある構造的な類似を強調することである。まるで、カフカの例では悪夢のような体験だったものが、突如として楽しいゲームになったかのようだ。誰も本当にこの城にまともに入りたいとは思わない。楽しいのは、徐々に、一部だけ入っていく際限のないゲームだからこそ得られる。言いかえれば、元締め(マスター)の機能が停止されたとたん、悪夢が楽しいゲームになるのだ。




スラヴォイ・ジジェク「電脳空間、あるいは存在の耐えられない閉塞」 p.232



[関連エントリー]

*1:http://project.cyberpunk.ru/lib/johnny_mnemonic/

*2:W.Gibson, Neuromancer

*3:

グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス)

グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス)