HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

信頼



ヴォルフハルト・パンネンベルク(パネンベルク)による〈信頼〉についての考察もメモしておきたい。ただ、パンネンベルクは、とりたてて特別なことを言っているわけではない。ごくあたりまえのことを述べているように思える。しかしそれがとても新鮮に聞える──聞えてしまう。現在の「悲惨な」風潮がそう感じさせるのかもしれない。だからこそ、この現在において、「公共神学 public theology」(アリスター・E.マクグラス)としての *1キリスト教の遺産は、ますます貴重に思えてくる


パンネンベルクは、〈信頼〉することなしには誰も生きていけないと主張する。「世界解放的」な存在としての人間は、つねに、どのような状況のなかでも決して見通しの立たない現実全体に差し向けられている。私たちの生きている現実は、つねに全体として未知でありつづける。たとえ私たちが順応できている一つのことも、つねに他日、私たちが予見したのとは違った結果になりうる──だから私たちは〈信頼〉しなければならない。
なぜなら、私たちが「そこへ」差し向けられている未知なものに対して、私たちはただ〈信頼〉を通して、ある関係を得るのだから。

信頼行為のなかでは、人は自分が信頼をおいているものにたいして──少なくとも一定の観点において──自分自身を放棄する。信頼する者は、まったく文字どおりの意味において自分自身を見捨てる。彼は、自分が信頼するそのものの真実、その不変性へと自分をゆだねる。その不変性とは、信頼されるものが人間であれ、事物であれ、いま私がそれについて待望しているとおりに、それが将来現れることである。信頼する者はそれを頼りにする。彼はこの点において今後もはや自分自身にたいしていかなる力ももたない。
信頼したことが正しかったか、あるいはそれが失望におとしいれられるかに応じて、幸福か災いかが決定されるが、いまやこの決定は彼が信頼したものの側におかれている。


信頼によって人間は未知なものに自分を賭ける。しかしそれは、まったく不確実なものをつかむということではない。私が信頼するものは、経験によって知られていなければならない。そうでなければ、信頼することはまったく不可能である。さらにそれは、経験を経ることによって、信頼に値するものとして示されたものでなければならない。そうでなければ、それを信頼することは、まったく軽率さを意味することになろう。しかしそうしたのちでもなお信頼することが正当と判断されるかどうかは、単純に自明なことではない。そのかぎりにおいて、それは未知なものに自分を賭けることであり、もっと正確にいえば、ある不確実な将来に自分を賭けることである。もちろん信頼する者は、自分の信頼が失望におとしいれられることを、将来に待ち望んでいない。彼は、信頼が報われ、悪ではなくて善に見舞われることを待ち望んでいる。

……

毎日の一歩一歩の歩みのなかで信頼が必要である。人が、その内的本質を完全には見抜けないさまざまな事物や力あるものと交渉しなければならない場合、つねに、信頼が必要である。




ヴォルフハルト・パンネンベルク『人間とは何か 神学の光で見た現代の人間学』(熊沢義宣・近藤勝彦 訳、白水社『現代キリスト教思想叢書〈14〉』より) p.375-376

信頼は他人の真実を頼みにする。信頼する者は、私が依り頼んでいる他人が、私との関係において変わらず誠実でありつづけることを──私の現存在に対して持続をあたえてくれることを──頼りにしている。


Luke Snyder and Noah Mayer - ”As the World Turns”

まず、他人との交渉において信頼が必要であることはまちがいがない。この場合、そのときどきの信頼のなかにどの程度の危険がふくまれているかを綿密な認識のもとに査定したり、それに応じて自分の態度を整えたりすることは不可能である。ここでは信頼に値するかどうかの判断は、きわめて不正確なものにとどまる。人は共働者に自己の活動領域の一部を委託したり、逆に自分の力をその人のために用立てたりするのであるが、いったいどの程度までその共働者を知っているのであろうか。……。われわれは、彼らの能力についても欠陥についても、しばしばひじょうにわずかな部分を知っているにすぎない。そして、信頼の危険が大きくなればなるほど、それだけいっそう、信頼によって基礎づけられた結合は強固になり包括的になる。


友情や結婚によって自分たちの生涯を完全に、あるいはそうでなくてもきわめて広範囲に結びつけた人でさえ、けっして充分には知ってはいない。人はまず、しだいしだいにお互いに学び合うのであって、けっして完全に知ってしまってはいない。しかもたいていの場合、だれでも自分自身に逆らって未知なものへと引き渡されつづける。
人は自分の力を投入することによって自分を確かめ、つねにただそのかぎりにおいて自分自身を認識する。そして、まさにこの自分の力の投入には、新しい冒険にみちた自己への信頼がくり返し必要である。


それゆえ、人間との交渉においては、日ごろ手にする事物とはちがって、ただ完全に洞察する時間がないだけではない。むしろ、人間存在の固有性からして、究極的な判断を形成する土台が欠けているのである。たしかに、その人がとくに習慣にしたがっている場合には、その人の態度の多くの面が、実際的な確かさをもって予言されうる。しかし、本質においては彼はけっして他人との関係を終わらせない。

つまり、彼を知り尽くしてしまうことはけっしてない。そこに、他人が人間としてつねになお保持している開放性があり、自分の態度を変化させうる創造的な能力がある。




p.377-378

私たちが自己の人間存在の開放性のなかで究極的に差し向けられているものは、ただ無制約的な信頼行為のなかではじめて経験できるものであり、この起源は本質上、人格である。


パンネンベルクは、この「彼に対する信頼関係」を、神と信仰の関係に導く。すなわちルターが語ったように「いまあなたが、あなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがそもそもあなたの神なのである」(原信頼)と。そして無限の神も、把握しうる有限な形態において、すなわち人格として、人格的な神として、信頼の対象になる。
人間は、無限の神を信頼するように定められていることによって、あらゆる有限な状況と環境を超え出るように呼び出されている──人間は、この信頼によって、自己の有限性の枠を超え出ていくことができるのだ。




[関連エントリー]

*1:What is Public Theology? [Charles Sturt University]