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愛による法 〜 ヴォルフハルト・パンネンベルク



ドイツの神学者宗教哲学、組織神学)ヴォルフハルト・パンネンベルク(Wolfhart Pannenberg、b.1928 -)の『人間とは何か──神学の光で見た現代の人間学』より第八章「愛による法」についてメモしておきたい。
パンネンベルク(パネンベルク)は、現在はポーランド領であるシュテッティンに生まれた。ベルリン大学ゲッティンゲン大学で哲学を学び、その後バーゼル大学でカール・ヤスパースカール・バルトに師事、さらにハイデルベルク大学エドムント・シュリンクEdmund Schlink、1903 - 1984)に師事した。その著作の多くが英訳されており、宗教界のみならず、数理物理学者のフランク・ティプラー/Frank J. Tipler などにも大きな影響を与えている。


「愛による法」では、まず、フェルディナント・テンニース(テニエス、Ferdinand Tönnies)の提唱したゲマインシャフト(Gemeinschaft 自然的に、意図せずに発生してきた人格共同体)とゲセルシャフト(Gesellschaft 人為的技術によって構成された利益共同体)の対比が、批判的に取り上げられる。

  • (例えば家族のような)人格共同体/ゲマインシャフトの構成員は、互いの連帯性の感情によって結合されている。
  • 一方、利益共同体/ゲゼルシャフトのなかの個人はそれぞれの利益によって分離されており、理性的な合目的性によって、ただ外的な仕方だけで結合されている。

パンネンベルクは、この人格共同体と利益共同体の「対立」──対立させる理解の仕方──は間違いだ、と述べる。なぜなら、共同体の形態の形成はつねに理性的な課題であり、

  • どのような人格共同体をもその構成員のしっかりした役割分担がなければ持続的に成立することはない
  • それゆえ、どのような人格共同体も束の間のつながり以上の持続的形式を取る
  • だからこそ、その形態ゆえに、人格共同体は利益共同体でもあるのだ

パンネンベルクによれば、共同体生活を技術的に・人為的に整えていくことは、人間にとって、何ら不自然なことではないのである──「自然の現存在形式」も実は激しく動いてきた前史をもっているのであって、ただそれが忘却されているだけなのだ。むしろ、「人間的世界開放的な存在」として、その生活領域のどこにおいても、自分の現存在をまだ形成しなければならないという課題を人間はもっているのだ。
この〈世界開放性〉は『人間とは何か』における鍵概念で、第一章の「世界開放性と神開放性」にまとまっている。

1. 人間の世界開放性は神との関係性を前提としている。神との関係についてなんらはっきりしておらず、《世界開放性》という言葉が不明瞭なままで、まるで人間が世界に差し向けられているかのようであるとしても、それでもなお重要なのは、人間が自己の世界として眼前に見いだすすべてのものを超えて、その彼岸に向かって問わなければならないという事実である。人間の現存在のこの固有性、すなわち、人間が無限になにかに差し向けられているということは、ただ神に対する問いかけとしてのみ理解される。世界にたいする人間のかぎりなき開放性も、まさにこの世界を超えた人間の規定からはじめて生じるのである。


2. ただ人間が文化へと規定されていることだけを語る場合には、人間存在の開放性はまだ十分に深く把握されていない。たしかに、含蓄に富んだ仕方でいわれてきたように人間が生まれながらにして文化的存在であることは、そのとおりである。たしかに人間は、いつでもまず、自分の生の形態を決定するものへと自己形成していかなければならない。しかし、人間の文化創造的な活動そのものも、もしそれが一つの問いかけあるいは探求の表現として把握されなければ、正しく理解されないままである。そして、この問いかけあるいは探求は自然を超えていくが、それだけでなく同じようにつねにくり返し、あらゆる文化的形成物をも越えて身を延ばしていくものなのである。


3. それゆえ、動物が環境によって束縛されているのと同じように、人間の場合には自然的世界との関係や文化的世界との親密さがある、とはいえない。むしろ、動物にとっての環境に対応するものとして、人間には神にたいして無限に差し向けられているということがあるのである。動物にとって環境であるものは、人間にとっては神、すなわち、そこにおいてのみ人間の努力が安息を見いだすことができ、そこで人間の規定も成就されるような、目標なのである。





ヴォルフハルト・パンネンベルク『人間とは何か 神学の光で見た現代の人間学』(熊沢義宣・近藤勝彦 訳、白水社『現代キリスト教思想叢書〈14〉』より) p.358-359


人間は、世界開放的な存在である。その生活領域のどこにおいても、自分の現存在を形成しなければならない──そういった課題をもっている。世界を変革し、同時にまた、自分自身を変革する。人格共同体とは、そのことを忘却したうえで表現されるものである。自然なものと見なされる人格共同体は、実のところ、利益共同体としての前史をもっている。
では、何に拠って人格共同体(=利益共同体)は、結合されたのか──それは愛である。

Wedding for Kevin and Scotty on "Brothers & Sisters"

人間を人格共同体へと結合させる愛の力は、形をもたず流れゆく感情にすぎないのではなく、自分を表現しようとする動きへ、助ける行為へ、他人を承認しようとすることへ、協定による一致へと駆り立てる。愛の力は、そのときどきの、まったく一定の役割のなかにある隣人を、共に働く人として、友人として、生涯の伴侶として、両親あるいは子供として、医者あるいは患者として、商人あるいは顧客として、教師あるいは学生として、自分の生のなかに受け入れる。隣人が私に向かい合ってある一定の役割のなかで承認されるときに、はじめて私は人格としての彼ともかかわりをもつのである。なぜなら、たとえ他人がみずから引き受けた役割のなかに現れないとしても、その役割が彼のものである以上、彼はなお人格としてなんらかの仕方でこの役割を通して自分を表現するからである。万一その役割が彼にとってたんなる変装にすぎないとしても、私は彼を人格として認めるためには、その役割と彼との関係において、彼を真剣に受けとらなければならない


愛は、人が他人とかかわりあいをもちはじめたときの、その一定の役割のなかで、その人を人間として認めることからはじまる。そして、愛は、この役割にもとづいて、その人の生を成り立たせ、形づくる課題を助成することからはじまる。だれもが、つまり、それを自覚しているといないとにかかわらずだれもが、たんなる一時的な気分にしろ、決定的瞬間での運命にしろ、共に他人の生を形づくっている。人が他人の中に自分を移し入れることは、まず第一に愛に属している。それゆえ、たとえ束の間の出会いにおいてであれ、私の手にあたえられたものについての空想に富んだ理解がまた、まず第一に愛に属している。このように自分を他人に移し入れることはすでに、他人がこの人あるいはあの人として承認されていることを前提にしている。




「愛による法」(『人間とは何か』より) p.448-449

隣人を、その社会的役割のなかで承認する──そして、そのような役割が与えられる人もまた、他人の側での承認を通して「そのような役割」が与えられているのである。承認することは、私と他人との共同生活のなかで、隣人にたいして一定の位置を作り出したり、保証したりする。承認という行為を通して愛は法をつくり出す。愛はつねに何らかの意味で永遠を望む。愛は信実(トロイエ)によってその本質を守りながら、ただたんに点的な共同体体験を打ち立てるだけではなく、確固とした共同体の形成を樹立する──愛のなかにある信実という契機によって、承認行為は制度化され、持続や信頼性*1を獲得する。

Kevin and Scotty's Wedding Ceremony on "Brothers & Sisters"

持続力をもった共同生活は、関係者相互の承認によってのみ可能なのである。共同体の成立は、ただ愛の本質からだけ理解されうる。愛のいろいろな可能性は、たしかにそのときどきの事情によって限定されるであろう。しかしもし愛が完全に欠如してしまったならば、いかなる共同体も成立できないし、またすでにある共同体もそれ以上存続することができない。


愛の働きが目ざしていることは、まずはじめに共同体生活の暫定的な形態を具体化させること、そして次にその形態を超えてよりよい法を作り出し、かくして共同体を確立することである。それゆえ、それ自体であらゆる時代であらゆる時代に愛の本質に適っているような理想的な共同体の秩序などは存在しない。
愛がもっている法形成的な力は、自然法的体系とか理想社会の実現を目ざしているのではない。それはむしろ、そのときどきのあたえられた条件のもとで、人間の有益な共同生活のために最善の可能性を得ようとするのである。それゆえそれは、実定法に、つまりつねに新たな法形成の歴史的連続に結びついている。このことは愛の創造的性格と関連している。愛の空想力は、変化していく具体的生存条件に直面しながら、人間の無限の定めにますます接近していく共同体の新しい法形成を案出することができる。このようにして人間の愛は、実定法の歴史のなかに推進力として働くのである。




「愛による法」(『人間とは何か』より)p.451-452

ただし、この愛による法形成を律法主義と混同してはなならない。律法主義とは、むしろ、愛の欠如した法の規範の徹頭徹尾厳格な押し付け──それは互いの承認に基づく役割ではなく、決められた義務を徹頭徹尾厳格に自覚させること、すなわち愛の精神を失ってしまった外的な規定、硬直性である。

愛にはまた、すでに存立している秩序をくり返し踏み越えていく衝動も内在している。このことは、外見上互いに矛盾しているように見える。しかし、この外見上対立しているように見える愛の二つの働き方が実は相互に関連し合っていることは、愛がまさに法の根拠であることを考えてみれば明らかである。一つ一つの法の形態は、一定の状況と結びついている。それは、その状況にたいして人間の共通の働きを可能にし、規則づけている。
法は、特定の状況にたいして適合しているならば、そしてそのかぎりにおいて正当である。しかし状況はたえまなく変化していく。それはつまり、法も変化しなければならないということである。さもなければ、一つの古くなった法規範が新しい状況のなかで不正として作用するこが起こりうる
しかし愛はいつでも、しばしばきわめて特殊で制定法のなかに予想されていない状況にいる隣人にたいして公正になるために、通用している法規範を超えてその隣人に向かっていく。極端な場合には、通用している法規範に対立しさえもする。




「愛による法」(『人間とは何か』より)p.455-456

*1:「信頼」についてもパンネンベルクは第三章で考察している。「人間存在の開放性に応じた処理と信頼の正しい関係は、無限の神にたいする絶対の信頼と、隣人の無限の規定にたいする尊重と、そして、それらをめざして秩序づけられた世界の有限な事物の処理であろう」p.384