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「シューマンにおける油絵風石版印刷調のものの混在」って何だろう?



ロベルト・シューマンについて書かれたものはできるだけ目を通すようにしている。それら「シューマン論」が、僕にとって、納得のいくものであることも、そうでないことも、もちろんあるのだが。ただ、次のアドルノの文章は、どうしても意味がわからない。

マーラーの音楽がまずは標準という概念とうまく一致しないならば、その音楽はこの概念にそれ自身の不正を想い起こさせる。すなわち、技術と趣味というコンパスで書かれ、音楽に妥当性という誤った表装の魔法をかける円環の中にある、単純に磨かれた頑固さを想起させるのだ。マーラーによる標準の侵害は、それが意図的であろうとなかろうと、客観的に芸術手段となる。彼が子供じみた身振りをするならば、それは大人になることを拒絶しているのである。なぜなら彼の音楽は、成熟した文化を根底から見据えた上で、そこから出たいと願っているからにほかならない。時代による制約ということならば、マーラーに裁可を下す者がまさに永遠に安全な在庫リストと見なしている作曲家たちにも難なく指摘しうるだろう。


たとえばバッハやモーツァルトに見られる型どおりの失敗、ベートーヴェンにおける飾り立てた皇帝英雄主義の混在、シューマンにおける油絵風石版印刷調のものの混在ショパンドビュッシーにおけるサロン的なものの混在、というようにである。


こうした契機のうち重要な音楽において消滅するものは、そうした音楽の層では糧がなく生育しないような一つの内実を、もっぱら過ぎ去り行くものとして浮かび上がらせている。時代の制約を受けたものと存続するものとの間の区別があまり納得のゆくものでないのは、存続するものとは、音楽においても、「その時代を思索の中に捉える」ものにほかならないからである。最後には、存続するものというイデーそれ自体が作品の生を固定した財産のように物象化してしまい、展開や消滅が人間の形成したもののそれにふさわしいように考えることがなくなってしまう。




テオドール・アドルノマーラー』(龍村あや子 訳、法政大学出版局) p.174

マーラー―音楽観相学 (叢書・ウニベルシタス)

マーラー―音楽観相学 (叢書・ウニベルシタス)


ここではマーラーの音楽について論じているので──要するにマーラーの音楽は「型破り」であることを、難解な言葉で述べているのだろう。その「型破り」=「標準の侵害」こそが、「意図的であろうとなかろうと」芸術手段になっている。客観的に? 
「成熟した文化を根底から見据えた上で、そこから出たいと願っている」というのも、マーラーのスコアのどこを見る・読むと、そういうふうに感じるのだろう(ちなみに僕は学生オーケストラの「初見練習」でマーラー交響曲第1番の第一楽章──ヴァイオリンはフラジオレットの最高音から始まる──をやったことがある)。

しかしこのようなマーラーの芸術手段に対して、批判=裁可を下す人たちがいる。では、彼らが「標準」=「安全な在庫リスト」と見なしている作曲家についてはどうか。そこで…


で、それらが「契機」であり消滅する……これって、スラヴォイ・ジジェクがよく言ってる「消えゆく媒介者」(The Vanishing Medeator)のことかな……。いちおうトニー・マイヤーズの「ジジェク本」にある簡潔な説明を参照しておこう。「消えゆく媒介者」という概念は、もともとフレデリック・ジェイムソンの論文「消えゆく媒介者──物語作家としてのマックス・ウェーバー」から借用したものだ。ジェイムソンは、ウェーバーマルクス主義批判──資本主義の出現にとってプロテスタンティズムが必要条件であった──を分析している。

プロテスタンティズムは宗教で、資本主義は生産様式であるから、この解釈は、下部構造が上部構造を規定するという伝統的マルクス主義ヒエラルキーを逆転させたことになる。これに対するジェイムソンの応答は、マルクス主義といっさい矛盾しない弁証法的運動によって、どのようにプロテスタンティズムから資本主義が発展したのかを明らかにしてみせる、というものである。
ジェイムソンは、彼が消えゆく媒介者と名づけるもの──ふたつの用語の失われた環によって、この弁証法は動かされている、と主張する。この場合は、プロテスタンティズムが、封建主義と資本主義の間の消えゆく媒介者だというのである。プロテスタンティズムが出現するまで、宗教は経済的領域から分離していた。しかし、プロテスタンティズムが宗教を普遍化し、労働の領域をその影響下に取り込み、富を蓄積し、勤勉に働き、禁欲的に生きるように人々を促した。そうすることで、プロテスタンティズムは資本主義出現の条件を作り出したのである。皮肉なことに、資本主義の出現は、誰もが知るように、一般的に宗教の、とりわけプロテスタンティズムの衰退を促した。


(中略)


ジジェクは、消えゆく媒介者が内容と形態の非対称によって生じるという点に注目する。マルクスの革命の分析にもあるように、形式は内容に遅れをとる。内容は、既存の形態が許容する範囲内で変化し、やがて内容の論理が作動して形式を打ち破り、古い形態の殻を投げ捨てると、そこに現れてくるのは、新しい形式なのである。




トニー・マイヤーズ『スラヴォイ・ジジェク』(村山敏勝 訳、青土社) p.70


そしてアドルノによると、消滅を免れた「存在するもの」が最後には物象化されてしまい、「人間の形成したもののそれにふさわしいように考えることがなくなってしまう」のか……。
でも一つだけ言えるのは、マーラーの作品を演奏することは、とても「重労働」なんだよね。演奏時間も長いし、(標準の侵害という)特殊な奏法も要求されるし、そのために多大な練習をしなければならないし……。
そうそう、シューマンが《クライスレリアーナ》を作曲するにあたってインスピレーションを得た E.T.A.ホフマンの『牡猫ムルの人生観』に、〈円環〉(クライス)から「外にでて自由になりたいと」という文章があった──それが「楽長クライスラーの人生観」でもあり、それが「牡猫ムルの人生観」という文章と交じり合っている。以前も記したが、ここでも、再び引用しておきたい。

すてきな夫人、ぼくの名前の起源が<縮れた>(クラウス)という語にあるとおもわれて、<髪を縮らすひと>(ハールクロイスラー)という語のアナロジーから、ぼくのことを<音を縮らすひと>(トーンクロイスラー)だとか、あるいはまた<縮らせるひと>(クロイスラー)一般だとかに見なされてはいけません。そんなことになればぼくはすぐにでもクロイスラーと書かねばならなくなってしまいますからね。

<円環>(クライス)を想起していただきたいものです。その円環(クライス)のなかでクライスラーというのがぐるぐる回転している(クライゼルン/クライゼル=独楽)のです。


そしておそらく、その円環をぐるりと描いた暗い測りがたい力と争いながら、往々にして聖ファイト祭の舞踏にとりつかれ、跳ねまわったあげく疲労困憊し、そうでなくても弱い体質の胃にはにつかわしくないというのに、円環から外にでて自由になりたいと憧れるんです。そしてそういう憧れにひそむ苦悩が、やがてあらためて例のイロニーというやつにあたるのではないでしょうか。




ホフマン『牡猫ムルの人生観』(深田甫 訳、創土社)p.121

ホフマン=シューマンは「円環から外にでて自由になりたいと憧れる」ことを、イロニー(アイロニー)と呼んでいる。


そうなるとアドルノの言う「油絵風石版印刷調」っていうのが、まずますわからない──ビーダーマイヤーってことなのかな、でもそれだと「型どおり」だと思うのだが。
うーん。マウリツィオ・ポリーニの演奏による、シューマンの《ピアノソナタ第1番 嬰ヘ短調》 Op.11 を聴きながら、もう少しよく考えてみたい。

Schumann: Fantasy/Piano Sonata

Schumann: Fantasy/Piano Sonata




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