「フーガの何たるかも、簡単に説明したい」(ダグラス・R・ホフスタッター)……というより昨日書いた、僕の大好きなヨハン・セバスティアン・バッハの《トッカータ ホ短調 BWV914》のグッドな演奏が YouTube にあったので貼っておきたくなった。聴いてね。
まずは、テンポの遅い荘重な部分から。
toccata 914(3 movements)bach
この重々しさの後に続く、フーガの「動作」が、いい。いちおう「フーガの何たるかも、簡単に説明したい。
フーガはカノンに似ており、基本となるひとつの主題がふつうは異なる声部や調で演奏され、ときには異なる速さで、もしくはさかさま、あるいは逆向きに演奏される。けれどもフーガの概念はカノンよりずっとゆるく、したがって、もっと感情豊かで芸術的な表現が可能となる。
フーガののろしの合図は、その始まり方にある。単一声部が主題をうたうのだ。それが終わると、第二声部が五度上または四度下のどちらかで入ってくる。その間にも第一声部は「対位主題」をうたいつづける。つまり、リズム・和声・旋律の面で主題と対照をなすように選ばれた補助的主題である。声部がそれぞれかわるがわる主題をうたいながら入り、たいていは他声部のうたう対位主題に合わせてゆくが、あとの声部は作曲者の頭に浮ぶどんな奇抜なこともやっていく。全声部が「到着する」と、そこには何の規則もない。なるほど基準といえるものは存在する──けれども、公式によってしかフーガをつくることができないといった基準ではない。
ダグラス・R・ホフスタッター『ゲーデル, エッシャー, バッハ』(野崎明弘/はやし・はじめ/柳瀬尚紀 訳、白揚社)p.25-26
toccata 914(allegro-last movements)j.s.bach
蟹 たとえば、こんなことが理論的に可能だとしてもぼくはちっとも驚かないね。つまり、二つ以上の「シグナル」がたがいに相手のなかを通り抜け、各々が相手もまたシグナルであるのを知らないで、たがいに相手が背景集団の一部にすぎないかのように扱うことがさ。
蟻食 それは理論的に可能だなんてものじゃないんだよ。実は、なんと日常茶飯のことだから!
……思考はシンボルの操作から発していて、そのシンボルはシグナルから成り、シグナルはチームから成り、チームはその下のレベルのチームから成り、それはずっと下って……
……シンボルそのものは能動的なんだけれど、それがたどる行動は、にもかかわらず絶対的に自由だというわけではない。すべてのシンボルの活動は、それらシンボルの存在する十全なシステムの状態によって厳密に決定されるんだ。
したがって、どういう具合にシンボルが誘発しあうかはその十全なシステムが責任を負う。だからその十全なシステムを「動作主」というふうにいうのが至極妥当なわけだ。シンボルが作動するのに従って、システムの状態はゆっくりと変化する。というか更新される。しかし一定時間をすぎても存続する特徴も数多い。一部は持続し一部は変化するこのシステムが、つまり動作主なんだね。
ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版
- 作者: ダグラス・R.ホフスタッター,Douglas R. Hofstadter,野崎昭弘,柳瀬尚紀,はやしはじめ
- 出版社/メーカー: 白揚社
- 発売日: 2005/10/01
- メディア: 単行本
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