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徹底してフィロゾフィーレンせよ! 〜 オーストリアの哲学教育



島崎隆 著『ウィーン発の哲学 文化・教育・思想』より、第二部 ”オーストリアの教育と「哲学すること」” についてメモしておきたい。そのタイトルのとおり、オーストリアの学校教育に関する考察だ。
もともと僕がこの本を手に取ったのは、第三部の”「オーストリア哲学」の可能性”で、ウィトゲンシュタインが、当然のことながら、大きく取り上げられていたからだ。そこでは、ジャニク&トゥールミン『ウィトゲンシュタインのウィーン』の主張が分析されているし、ウィリアム・W・バートリー/William Warren Bartle の『ウィトゲンシュタインと同性愛』にも「きちんと」触れられている。また、ウィーン学団モーリッツ・シュリックMoritz Schlick の暗殺に関しても記されている。

ウィーン発の哲学―文化・教育・思想

ウィーン発の哲学―文化・教育・思想


まず、オーストリアの公教育の指針、すなわち教授計画(指導要領)が紹介される──そこにはオーストリアという国家が子どもをどのように育てたいのか、という方向性が明確に打ち出されているはずであろう。ところが、同時に、ウィーン市教育委員会の発言も参照されるのだが、それは「今日オーストリアではいかなる統一的な生活様式もなく、『正しい生活』に関するいかなる普遍妥当な見方ももう存在しない。唯一正しい教育に関してもそのとおりである」(『ウィーン学校案内1999年』)というものなのだ。
統一的な、普遍妥当な見方・指針なんてものは存在しない。しかしそれでもなお、妥当する公教育の指針(教授計画・指導要領)は、ある。必要である。それは明らかに矛盾ではないのか。そのとおりである。著者の島崎氏は、それを受けて、次のように述べる。

教育委員会自身もそこにひそむ矛盾を認めているし、親たちの教育上の要求も多様で、対立的ですらある。ここで彼らは賢くも、「私たちは矛盾とともに生きることを学んできた。矛盾は民主主義の塩である」(『ウィーン学校案内1999年』)という。思わず、『聖書』マタイ伝にある「地の塩」という表題を思い出すが、「民主主義の塩」というのは、矛盾そのものが民主主義を腐敗させず鍛えていく要素だということだろう。(……)
いずれにしても多様性や矛盾を認めつつ、民主主義を柔軟に形成しようというヒューマニスティックな姿勢がここに示されている。




島崎隆『ウィーン発の哲学 文化・教育・思想』(未来社) p.91


具体的にレオ・ライトナーとエーリッヒ・ベネディクトという教育関係の役人が編集した『教授計画サーヴィス・心理学と哲学』(Lehrplan-Service. Psychologie und Philosophie)が紹介される。この本は「一般高等教育の教授計画」についてのもので、島崎氏も述べているように、ここでの「一般高等教育」とはギムナジウム/Gymnasium のことだ。オーストリアの教育システムは「複線型」である。

6歳から10歳までは大体全員がフォルクスシューレ(Volksschule)とよばれる、日本でいうところの小学校へ行きますが、その後はさまざまな選択肢があります。

まず10歳のとき、小学校卒業の時点で、一般的な教育を受けるギムナジウム(Gymnasium 中学・高校にあたる学校)に行くか、職業訓練を主とした教育を受けることのできるハウプトシューレ(Hauptschule)に行くかを決めます。

大学へ進学したい人の多くは、ギムナジウムへ進学し、10歳から14歳まで下級クラスで学んだあと、14歳から18歳まで上級クラスへ行き、最後にマトゥーラを受けます。

ハウプトシューレに進学すると、14歳の時にギムナジウムへ進学するか、もしくはさらに技術的な職業訓練を受けられる学校へ進むかという選択があります。もしくは、レアリング(Lehrling)とよばれる見習い修行をするという選択もあります。見習いを選択した人は、マイスターとよばれる師匠(Meister)につき、職人、師匠とキャリアを積みます。まれに、あとになってから社会人入学資格を取得する人もいます。




オーストリアの教育制度 [オーストリア案内]

[Austrian Education System]

学校教育法第二節一項に「オーストリアの教育の課題」が記されている。

オーストリアの教育は以下の課題をもつ、つまり人倫的・宗教的・社会的価値ならびに真・善・美の価値にしたがって、子どもたちの発達段階と教育の方向に対応した授業をとおして、子どもたちの素質の発達に則して協力するという課題をもつ」(『教授計画サーヴィス』)

ここで特記しておくことは、宗教が公教育で重視されていること(無神論をふくめ、各人の宗派に対応した教育的措置がとられる)、「美的価値」が考慮されていることだろう。
そして『教授計画サーヴィス・心理学と哲学』の中から「一般教育目標」として以下の項目(理念)が抜粋されている。

  • 生徒を大人の資格へと、自分自身への責任意識をもつ者へと育て上げること
  • 同時代(Mitwelt)、環境(Umwelt)、後世(Nachwelt)にたいする責任感をもつように育て上げること
  • 人間存在の意味・課題・責任にたいする根本問題との基礎づけられた取り組みへと生徒を導くこと
  • 西欧的な心構えと世界への開放に結合した、オーストリア的な意識へと生徒を導くこと
  • 民主的・社会的で、かつ自由の原則へと方向づけられた法治国家へと尽力するための準備へと生徒を導くこと
  • コミュニケーションと共同作業の準備へと生徒を導くこと
  • 批判的な寛容と了解の準備へと生徒を導くこと

心理学と哲学が一括して扱われるのは、歴史的なこと(心理学は哲学から分化してきた個別学科)、「自己認識と自己反省」という共通課題を保持していること、などが挙げられる。

  • 心理学と哲学の授業は、獲得された知識・意見・価値づけを批判的に反省し、それらを授業対象の統合へと役立てるべきである。この授業は生徒にたいし、人生における批判的な行動上の方向づけを可能にし、学問的探求過程にたいする洞察を与えることを目指す
  • 哲学における授業は、個別諸教科を統合する方向づけを提供し、人生の根本問題に対する基礎づけられた取り組みを可能にしようとする
  • 哲学の授業では、生徒たちはできるかぎり哲学すること(フィロゾフィーレン)へと接近させられるべきである。そのさいに思考図式の単なる受容が問題ではなく、批判的に吟味でき、論証可能な、伝統を考慮する思考態度が重要であり、その思考態度が責任感ある行動を可能とする(『教授計画サーヴィス・心理学と哲学』より)

気がつくのは「批判的」(kritisch)という表現が繰り返されていることである。それはどういうことか、それはどういう事態を招くのか。

受動的な知識の吸収ではなく、批判的受容が不可欠とすれば、それはじつはひとつのパラドクスを導く。というのも、教育はあくまで想定された教育目標を生徒たちに吸収させるものに違いないけれど、しかしそれが単なる受容やまる暗記となれば、教育は失敗に終わるからだ。つまり教育はそれが表面的にうまくいけばいくほど、失敗に近づくのだ! 


ある教科書は、ここにある哲学的矛盾をすでに意識していて、その問題自体を教科書のなかに明示し、それまでも生徒に考えさせようとする。つまりそこでは、「子どもたちは自由へと、さらに大人へなることへと『教育される』ことができるのか。啓蒙の要請(たとえば、『そんなに従順になるな!』)はパラドクスではないのか」と問われ、それについて生徒自身に考えさせ、議論させようとする。驚くべきことに、これもまた哲学教育のひとこまなのである。ここではいわば、子どもを真剣に大人扱いしようとしており、彼らに徹底的に考えさせようとしている。




『ウィーン発の哲学 文化・教育・思想』 p.98

  • 会話・対話・議論は作業のさいに全面に押し出されるべきである。
  • 立場と探求方向の選択は教師たちにとって同様に自由裁量であるが、授業は一面的にまたはイデオロギッシュにおこなわれてはならない。教師たちは自分の意見と立場を生徒たちに知らせなければならないし、他の方向性も紹介しなければならない。他の論証的なとらえ方にたいする注意をとおして、生徒たちは寛容と批判的態度へと教育されるべきである。(『教授計画サーヴィス・心理学と哲学』より)

「議論せよ」「批判的に」「寛容をもって」。

それだけではない。哲学教育には、次の内容が提示されているのだが、

  1. 導入──哲学的問題提起の固有性の理解
  2. 認識する人間と現実性
  3. みずからの制度の世界に存在する、行動する人間
  4. 選択用のテーマ領域(美学、歴史哲学、自然哲学、宗教哲学法哲学および社会哲学、言語哲学人間学哲学史*1

この(3)の「みずからの制度の世界に存在する、行動する人間」では、「価値・規範・生活形式の連関をとらえること」、「価値と規範の基礎づけの問題構成をとらえること」、「制度と道徳の関係を反省すること」、「文明化の発展をつうじての倫理の要求を認識すること」という四つの学習目標が掲げられ、自由、善、幸福な生活、存在と当為、定言命法、良心などの倫理学的テーマから、社会構造、力と正義、戦争と平和基本的人権などの政治哲学的・社会哲学的テーマが並んでいる。
ここに、第四番目の目標に、「抵抗への権利と政治的自由の問題構成」が含まれている。つまり「国家への抵抗」も、そこには、ある。
国家が、国家自身への抵抗も場合によってはありうることを明示している──『そんなに従順になるな!』と、オーストリアという国家が、その教育方針で謳っているのだ。


[Universität Wien]


島崎隆氏は最後に『教授計画サーヴィス』における哲学教育の方針を以下のようにまとめる。

  1. 抽象的な哲学理論を教えるのみでなく、それを、オーストリアおよび全世界で生じている現実問題と意図的に結合して考えさせること。
  2. だが、反面、生々しい現実的諸問題を出すとしても、それを羅列するのではなく、それをじっくり理論的に反省して基礎づけること。ここで議論も可能になる。
  3. 単に断片的な知識を生徒に教えようとしているのではなく、徹底して考えること(フィロゾフィーレン)をとおして、生きるために役立つ価値や理念を獲得させようとしている。
  4. とはいえ、特定の価値観やイデオロギーを生徒に押しつけるのではなく、他の立場も公平に与え、議論をとおして考えさせようとしていること。
  5. 多様な考えや現実的な問題を出すとしても、それは論証や根拠づけを断念する、無拘束の相対主義を勧めているのではなく、あくまでそこに生じる問題を論理的に考えさせること。
  6. 教育の中心に対話や議論、質疑応答、広い意味でのコミュニケーションが置かれている。教育がうえからの単なる注入に終わってはならないとすれば、そこでは対話や議論が不可欠である。
  7. 最終的には、生徒が自分自身の世界観や価値観を身につけることが目標である。だが、それは独断的におこなわれるのでもなければ、個人の趣味に終わるわけでもない。大事なことはそこにある根拠づけや方法的態度であり、それがあるからこそ、他人との議論が可能となり、よりよいものを目ざすことができるのである。


『ウィーン発の哲学 文化・教育・思想』 p.111-112


★★★ウィーン大学のウェブサイトでこんなものをみつけた。そうか、2009年はガリレオ・カリレイの天体観測から400年目の年なんだ。→ 世界天文年2009 [ウィキペディア]

[Astronomiejahr 2009/International Year of Astronomy, 2009]

International year of Astronomy - Trailer in HD






オーストリアの哲学教育に関しては、そのものズバリの──つまり実際にギムナジウムで用いられている教科書を翻訳した『哲学の問い 討議用』(島崎隆 訳、晃洋書房)が出ていた。あとで読もう。

哲学の問い 討議用

哲学の問い 討議用

  • 作者: ベルンハルトヘルツル,ハンスウーラッハ,フリードリヒミューレッカー,Bernhard H¨olzl,Hans Urach,Friedrich M¨uhl¨ocker,島崎隆
  • 出版社/メーカー: 晃洋書房
  • 発売日: 2002/05/01
  • メディア: 単行本
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[関連エントリー]

*1:選択科目として「超心理学」の講座がある。テレパシー、透視、予知、オカルト的現象、念力、テレポーションなどの神秘現象だけではなく、バーミューダ・トライアングルや奇跡的治療、心霊主義などもその考察対象になっている。こういった「超心理学」の分野が公教育の教育対象となっているのは、当局が超常現象や超能力を単純に肯定しているのではなく、「出版物の洪水のなかではっきりと示されるオカルトへの一般的関心」を無視できないからだ──だからそれらを「批判的に」取り扱う。
そういえば、フランスのサスペンス作家カトリーヌ・アルレーの『呪われた女』(創元推理文庫)では「超心理学」がテーマになっており、そこに不思議なリアリティがあったのを思い出した。

呪われた女 (創元推理文庫 (140‐21))

呪われた女 (創元推理文庫 (140‐21))


また、イギリスのテノール歌手イアン・ボストリッジIan Bostridge は、オックスフォード大学で魔術(ウィッチクラフト)についての論文『Witchcraft and Its Transformations, C.1650-C.1750』を提出している。
Witchcraft and Its Transformations, C.1650-C.1750 (Oxford Historical Monographs)

Witchcraft and Its Transformations, C.1650-C.1750 (Oxford Historical Monographs)