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カンタベリー大主教、9月に来日



”米大統領就任祈祷、リック・ウォレン牧師選出でリベラル反発” という記事で、リチャード・D・リック・ウォレン牧師/Rick Warrenバラク・オバマの就任式で祈祷することをいち早く伝えた『クリスチャントゥデイ』なので、米国聖公会ジーン・ロビンソン主教がやはり就任式イベントに参加することも、すでにニュースになっているかな、と見たが……うん? まだのようだ(→追記参照)。


そのかわりに、聖公会アングリカン・コミュニオン)関連のビッグ・ニュースが報じられていた。
カンタベリー大主教9月来日、日本聖公会宣教150周年記念で [クリスチャントゥデイ]

日本聖公会(東京都新宿区、植松誠首座主教)は今年、日本での宣教が始まってから150周年を迎えるのを記念して9月23日に、約2000人を収容可能な東京カテドラル聖マリア大聖堂(東京都文京区)を会場にして記念礼拝を行う。記念礼拝には、世界中に広がるアングリカン・コミュニオン(聖公会)の各国代表が参加し、このほどその霊的最高指導者であるローワン・ウィリアム・カンタベリー大主教(英国)の来日も決定した。


ローワン・ウィリアム・カンタベリー大主教が来日!
Rowan Williams [Wikipedia]

Homosexuality


Williams' contribution to Anglican views of homosexuality was perceived as quite liberal before he was enthroned as Archbishop. These views are evident in a paper written by Williams called 'The Body’s Grace', which he originally delivered as the 10th Michael Harding Memorial Address in 1989 to the Lesbian and Gay Christian Movement, and which is now part of a series of essays collected in the book "Theology and Sexuality" (ed. Eugene Rogers, Blackwells 2002). In the conclusion of this address, he asserted:


"In a church that accepts the legitimacy of contraception, the absolute condemnation of same-sex relations of intimacy must rely either on an abstract fundamentalist deployment of a number of very ambiguous biblical texts, or on a problematic and nonscriptural theory about natural complementarity, applied narrowly and crudely to physical differentiation without regard to psychological structures."



http://en.wikipedia.org/wiki/Rowan_Williams#Homosexuality


[The Lesbian and Gay Christian Movement(LGCM)]

Theology and Sexuality: Classic and Contemporary Readings (Wiley Blackwell Readings in Modern Theology)

Theology and Sexuality: Classic and Contemporary Readings (Wiley Blackwell Readings in Modern Theology)



Archbishop's New Year Message - The Wealth that is our Fellow Human Beings

人々における神的なものの発現、それは、人々が精霊に満たされることによって歩み入る神との関係、すなわち神の子らとなることであり、彼ら全ての本質や性格にわたる調和、彼らの展開した多様の全てにわたる調和のうちで生きるということにほかならない。


この調和にあっては、彼らの多面的な意識は一なる精神のうちで和合し、あまたの生形態は一なる生のうちで和合している。それのみではない。他の「神に似せてつくられた」者たちとの間にあった障壁も、この調和によってとり払われ、同一の生ける精神が、それらのさまざまな者たちに魂を吹き込むのである。


こうして彼らは、もはや単なる似た(gleich)者たちではなく、一体の(einig)者たちとなる。彼らは、単なる個々の者たちの集合体(Versammlung)をなすものではなく、自ら一個の共同体〔教団〕(Gemeine)を形づくる。というのも、彼らはもはや──「信者たち」といった──ある一般者、概念において統一されているのではなく、生によって、愛によって和合しているのだからである。
人々のこの生ける調和、神におけるこの彼らの共同体こそ、イエスが「神の〔王〕国」(das Königreich Gottes)とよぶものに他ならない。


(中略)


神の国」の場合、すべての者が神のうちで生きているというその共同体的なものは、概念における共同ではなく、愛〔によるそれ〕である。
それは、信仰ある者たちを和合させる生きた絆であって、この生の一体感のうちにあっては、一切の対立は、それゆえその種の敵対的な〔現実の〕関係、ならびに〔そうした〕対立を含んだままのもろもろの〔概念的〕統一──もろもろの権利関係──などもすべて止揚されているのである。イエスは言っている。「わたしは新しい誡命をあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。〔わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば〕これによって人はみな、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」と。


この心友関係(Seelenfreundschaft)が、反省に対して精神や実存という形で表現されたとき、それがすなわち、共同体〔教団〕を統べる神的精神であり、神にほかならない。実際「愛によって互いに結ばれている人々を民とする国」というほど美しい理念がまたとあろうか。
全にして一なるものとしては神の精神にほかならず、また個々の者たちがいずれもその子でるような、そのような全体に属しているということほど、崇高な理念が果たしてあるだろうか。




G.W.F.ヘーゲルキリスト教の精神とその運命』(伴博 訳、平凡社ライブラリー) p.218-220

キリスト教の精神とその運命 (平凡社ライブラリー)

キリスト教の精神とその運命 (平凡社ライブラリー)





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[追記](1月16日)
クリスチャントゥデイ』で、ジーン・ロビンソン主教の大統領就任式イベントについてのニュースが報じられていた。