やっぱり……アドルノって嫌いかもしれない(笑)。
最後の休みなので──昨日はバーゲンで疲れたので──今日はじっくりと大好きなシューベルトの音楽を聴いた。
まずは、ルノー&ゴーティエ・カプソンとフランク・ブラレイによる《ピアノ三重奏曲》。
Schubert: Piano Trios Nos. 1 & 2
- アーティスト: Franz Schubert,Frank Braley
- 出版社/メーカー: Virgin Classics
- 発売日: 2007/02/26
- メディア: CD
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マウリツィオ・ポリーニの演奏で、ピアノソナタ第20番イ長調 D.959。とくに第二楽章がジーンとくる。
Franz Schubert:Klaviersonaten D 958 & D 959
- アーティスト: Franz Schubert,Maurizio Pollini
- 出版社/メーカー: Polygram Int'l
- 発売日: 1990/02/13
- メディア: CD
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マティアス・ゲルネ&グレアム・ジョンソンの歌曲集《冬の旅》。
Compl. Songs Vol. 30. Winterreise
- アーティスト: F. Schubert
- 出版社/メーカー: Hyperion UK
- 発売日: 1997/12/09
- メディア: CD
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そしてヴァレリー・アファナシエフによる、ピアノソナタ18番《幻想ソナタ》 D.894。長い、ひたすら長大な演奏……そのジャケットカヴァーには、カジミール・マレーヴィチ(Kazimir Malevich、1878 - 1935)*1 の『白の上の白』(White on White)──純粋に抽象的な、シュプレマティスム絵画──が使用されている。
- アーティスト: アファナシエフ(ヴァレリー),シューベルト
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 2005/12/21
- メディア: CD
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「私には、あたかも私は街はその方向にある事を知っているかの如く、なのである。」──「私には、あたかも「シューベルト」という名前はシューベルトの作品と彼の顔にぴったりであるかの如く、なのである。」〔しかし、何れの場合にも、私の思い違い、ないしは幻想、なのである。〕
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(『哲学的探求』読解、黒崎宏 訳・解説、産業図書より 第2部 p.90)*2
MALEVICH art for children
ウィトゲンシュタインは『確実性』において、「或る命題が真理であることは確実である(the truth of a proposition is certain;)」(『確実性』第193節)と言うことは何を意味しているか、と問うている。
「或る命題が真理であること」という言い方から、彼はそこにおいて「このドアは鍵がかかっている、ということは確実である。(It is certain that the door is locked.)といった文を考えているのであろう、と思われる。
ここで、確実である、と言われている事は、このドアは鍵がかかっている、という事である。
これに対して対照的なのが、我々が或る人について、「彼にとって、このドアは鍵がかかっている、ということは確実である。(He is certain that the door is locked.)」と言うことである。
ここで我々は、このドアは鍵がかかっている、という事は事実である、と言っているのではなく、彼にとって、……、ということは確実である、と言っているのである。
第一の場合には、我々は、或る命題が真理である事は確実である、と言っているが、第二の場合には、或る人にとって、……、という事は確実である、と言っているのである。
「私にとって、このドアは鍵がかかっている、という事は確実である。(I am certain that the door is locked.)という文の場合はどうであろうか。ちょっと見るとこの文は、第二の場合に属する、即ち、確実性を或る人(その人は話者である)に属させているのであって、或る命題が真理である事についてではない、と思われる。しかしこの文は、誤解を招き易い外見をしているのである。そしてこの事は、「私にとって、このドアは鍵がかかっている、ということは確実である。しかし、このドアは鍵がかかっている、ということは確実ではない」と言うことは矛盾であろう、或いは、ほとんど矛盾であろう、という事実によって示される。「私にとって、qという事は確実である」という形の言明をするという事は、話者にとって、qは真である、という事は確実である、と言うことであり、且つまた、表だって言うのではないとしても、少なくとも、qは真である、ということは確実である、ということを含意しているのであると、思われる。
ノーマン・マルカム『何も隠されてはいない ウィトゲンシュタインの自己批判』(黒崎宏 訳、産業図書) p.387-388 *3
*1:マレーヴィチ&シュプレマティズム関連の本。 零の形態―スプレマチズム芸術論集 (叢書・二十世紀ロシア文化史再考) マレーヴィチ考―「ロシア・アヴァンギャルド」からの解放にむけて
マレーヴィチによる『無対象の世界』『零の形態―スプレマチズム芸術論集』
大石雅彦 著『マレーヴィチ考―「ロシア・アヴァンギャルド」からの解放にむけて』
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