HODGE'S PARROT

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レヴィとポールのラヴ



『DNA』や『Men Machine』といったゲイ・マガジンにも「気安く」登場してくれるファッション・モデルのレヴィ・ポウルター/Levi Poulter と、やはりハンサムな人気モデル、ポール・フランシス/Paul Francis の二人が愛し合っている写真が、David Vance によって撮られている。”Kissing Paul”という物語仕立て──多分に象徴的な、であろう──になっているようだ。

脆弱なる絶対―キリスト教の遺産と資本主義の超克 ポストモダン時代とその「思想」とやらにみられるもっとも悲惨な状況のひとつは、宗教的な要素が様々な衣をまとって回帰していることである。その範囲は、キリスト教および他教の原理主義はもちろん、〈ニューエイジ〉的精神主義から脱構築主義そのもの(いわゆる「世俗化-以後の」思想)に内在する新たな宗教的感性までを含んでいる。マルクス主義者は「戦う唯物論者」(レーニン)として、この蒙昧主義〔反啓蒙主義〕の襲来をどのように迎え打つべきなのか。こうした傾向を勇猛果敢に撃破するだけでなく、マルクス主義自体のなかに残存する宗教的遺産を容赦なく批判すること──それが明白な答えのようにみえる。


歴史は信者たちの最終的な解放の過程であるという、キリスト教マルクス主義の考え方の相似(「共産党は世俗化された宗教的党派である」という悪名高き主題)にかこつけた、むかしからある自由主義的な中傷に対しては、こう主張すべきではないだろうか。それは硬直化した「教条主義的な」マルクス主義だけにいえることであり、その真正な、自由を推し進める思想の心髄には当てはまらないのだ、と。


アラン・バディウの画期的な聖パウロ(Saint Paul)論*1に依拠するわれわれの仮定は、それとはまったく逆である。


そのような防御の姿勢をとるかわりに、つまり敵が戦闘領域を確定することを許すかわりにするべきことは、非難のもとになっているものを全面的に支持することによって戦略を逆転することである。
そう、キリスト教マルクス主義のあいだには直接的な系統関係があるのだ。そう、キリスト教マルクス主義は新種の精神主義の襲撃に対して一致協力して戦うべきなのだ──真正なキリスト教の遺産はきわめて貴重なものであり、それを原理主義の熱狂者たちに預けることなどできない。




スラヴォイ・ジジェク『脆弱なる絶対 キリスト教の遺産と資本主義の超克』(中山徹 訳、青土社) p.7-8

Together We Are Beautiful

キリスト教の伝統には危機を乗りこえ生き残るための一種独特の弁証法が働いているように思われる。自分に危機をもたらしたものを自分の内に繰り入れるという生存術である。「神の死」がキリスト教を脅かす。「神の死の神学」が生まれる。「社会主義」がキリスト教を脅かすと、「キリスト教社会主義」が生まれる。


──二000年ほどまえにキリスト教が生まれた時、ギリシア存在論はすでにそれを脅かしていた。しかし、やがてプラトンキリスト教化され、やがてはアリストテレスすらもキリスト教化された。「キリスト教を維持し保全するのに努力した者が、まさにその最大の破壊者となった」というニーチェの言葉は、逆にしても正しいのではないか。「最大の力でキリスト教を脅かしたものは、その最大の力でキリスト教を支えるようになった」とも言いうるであろう。




加藤尚武『哲学の使命 ヘーゲル哲学の精神と世界』(未来社)p.154 *2


[関連エントリー]

*1:Alain Badiou, "Saint Paul: The Foundation of Universalism"
あ、翻訳されてた。あとで読もう。

聖パウロ

聖パウロ

*2:

哲学の使命―ヘーゲル哲学の精神と世界

哲学の使命―ヘーゲル哲学の精神と世界