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ロベスピエールの慈悲



スラヴォイ・ジジェクの『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』より、マクシミリアン・ロベスピエールについて書かれた文章ロベスピエール──恐怖という「神的暴力」”を読んだ。

ロベスピエール/毛沢東―革命とテロル (河出文庫)

ロベスピエール/毛沢東―革命とテロル (河出文庫)

フランス革命を措いて「あらゆる歴史は現在の歴史である」という格言の真理が証された事例は他にない──ジジェクはそのように述べ、柔なリベラル派の「カフェイン抜きの革命、革命が匂わない革命」(1793年の抜きの1789年)を批判していく。「もし君がA──平等、人権そして自由──と言うのであれば、君はその帰結に怖気づくことなく、B──Aを本当(リアル)に護持し主張するには恐怖(テロル)が必要だ──と公言する勇気を奮い起こせ」。

宣言された達成目標(ゴール)が「自由の命運を真理の手の許へ還す」ことにあるロベスピエールの〈真理〉の政治──もちろん、大文字の真理である──を措いて、多様な臆見(オピニオン)や市場競争、ノマドな複数主義的相互作用といった自由を言祝ぐわれらが世界に相応しくない不気味なものを、誰が想像できるだろう? かかる〈真理〉の執行は恐怖政治家(テロリスト)の作風において可能なのだ。

平時における人民政府の主動因が徳(ヴエルチュ)だとすれば、革命時における人民政府の主動因は徳と恐怖(テロル)の一番である。徳なき恐怖は惨禍であり、恐怖なき徳は無力である。恐怖は機敏にして容赦なき不屈の正義以外の何ものでもない。したがって恐怖とは徳の発露である。恐怖は特定の原理というよりも、むしろわれわれが祖国にもっとも差し迫った必要に振り当てられる、民主主義の一般原理の帰結の一つである。(Robespierre, Virtue and terror)

ロベスピエールの行論は、その対極との逆説的一致において、頂点に達する。革命的恐怖(テロル)は罰と慈悲の対立を「揚棄し、至高のもの」とするのである──敵に対する正しくも容赦なき懲罰は慈悲のもっとも高度な形態そのものであり、であればこそまた、この形態において厳格と慈愛が同発・同居する。

人間を抑圧する者たちを罰する。それは慈悲である。彼らを赦すことは野蛮である。暴君たちの厳格はこの厳格だけを唯一の原理とし、共和政府の厳格は慈善に拠る。(Robespierre, Virtue and terror)

スラヴォイ・ジジェクの『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』(長原豊松本潤一郎 訳、河出文庫) p.112-113

革命の大天使 (archange de la Terreur、l'archange de la Révolution)と呼ばれたルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストLouis Antoine de Saint-Just も「〈徳〉も〈恐怖〉も欲さぬ者たちは何を欲しているのか」と問い、それは「連中は腐敗を欲しているのだ」と応えた。
ジャコバン派による恐怖政治の「合理的核芯」を承認しなければならない──本当に現実的に、平等・人権・自由を欲するならば。
ところでジジェクによれば、ロベスピエールは厳格に平和主義者だった──ロベスピエールにとって革命的恐怖(テロル)とは戦争の対極であった。それは、偽善や博愛的感情からでは、まったくない。合理的意識によるものだ。なぜなら、諸国家間の戦争は、各国家内の革命闘争を雲散させてしまうからだ。ロベスピエールのスタンスは、社会生活を軍事化し独裁的に制御するために戦争を必要とする者たちと対蹠しているのだ。
ここにおいて、ロベスピエールを──そしてサン=ジュストを──「革命抜きの革命」を欲する者たちと厳密に区別しなければならない。「体制が与えてくれる特権をすべて享受しながら、外面的には批判的でありたい」左翼学者*1との区別を。「現実の対価は回避し、美しい魂の姿勢をとり、自分の手は汚さない……人民のための真の民主主義を求めながら、反革命と戦う秘密警察もなく、自分の学界での特権は脅かされない*2」人たちとの区別を。

Maximilien de Robespierre
1758 - 1794

市民諸君、諸君は革命抜きの革命を望んでいたのか? われらの鉄鎖を破壊した処刑の精神をいわば書き換えるために必要だったこの処刑の精神とは、何か?
だが、これら大いなる激動の結果たり得るさまざまな影響の許で、誰が確実な裁きを下せるのか? 大いなる出来事の後で、いったい誰に民衆蜂起の波が砕け散るべき精確な地点を標定し得ようか? かかる犠牲を払って、かつていかなる人びとが専制の頚木を断ち伐り得ただろうか? というのも、一つの偉大な国民が一つの運動で同時多発的には蹶起しえず、暴政を目の当たりにした市民からなる部分だけが暴政を打破することができる。これが真実だとすれば、勝利の後に、暴政を間近に経験することのなかった部分から遣って来た代表者たちが蹶起市民に故国を救った政治的苦痛の継続あるいは暴力の責任を圧し付けることを認めるようなことがあれば、あえて蹶起市民が暴政を攻撃したりしただろうか? 


蹶起市民をこの社会全体の暗黙の代表と看做すことが至当でなければならない。自由の友たるフランス国民は、昨年の八月のパリにおける公会に当たって、全部門に成り代わってその役目を果たした。彼らは完全に承認されるか、さもなければ完全に拒絶されるかの、何れかであるべきである。きわめて甚大な衝動から切り離すことのできない、表面的な無秩序あるいは現実に起きた無秩序の廉で、彼らに罪を着せることは、彼らをその献身を以て罰することに等しい。(Robespierre, Virtue and terror)*3

フランス革命の1792年から94年にかけて起こった革命的な恐怖政治(テロル)は、ベンヤミンの言う「神的暴力」なのである。「聖書に出てくる破壊者たちのように、人間たちの罪深い所業に神が下す打擲」(p.117)。

人民は法廷と同じやり方で裁きを下さない。人民は判決文を言い渡さない。人民は雷撃を放つのだ。人民は国王に有罪判決を申し渡さない。人民は国王を空無へ蹴落とすのだ。そしてその正義が、まさしく法廷のそれに等しいのである。(Robespierre, Virtue and terror)*4

そして、もう一度確認しておきたい。ロベスピエールにとって「敵に対する正しくも容赦なき懲罰」──それは〈慈悲〉なのである。

Bach - B minor Mass - 01 - Kyrie eleison *5


だが革命は確かに存在する。感じやすく純粋な魂たちよ、私は諸君にそう請け合うことができる。それは有る。あの優しげで傲慢な、また抗い難い情熱、激痛と寛大な心たちの歓喜が。虐政のあの深甚なる悲惨、抑圧されし者たちへのあの憐憫に充ちた熱意、故国に寄せるあの神聖なる愛、人間への弥増す崇高にして気高き愛。これを欠いては、一つの偉大な革命は別なる犯罪を破壊する単なる騒々しい犯罪にすぎない。
革命はまさに有る。世界初の共和制を地上に、ここに、打ち樹てるという、あの惜しみなき渇望が。
(Robespierre, Virtue and terror)*6


[History of the French]

Virtue and Terror (Revolutions)

Virtue and Terror (Revolutions)

*1:ジジェク『操り人形と小人』(中山徹 訳、青土社)より p.68

*2:ジジェク『信じるということ』(松浦俊輔 訳、産業図書)より p.4

*3:ロベスピエール──恐怖という「神的暴力」より p.119-120

*4:ロベスピエール──恐怖という「神的暴力」より p.117

*5:ヨハン・セバスティアン・バッハ《ミサ曲 ロ短調》BWV232 より「キリエ」(主よ、憐れみたまえ)

*6:ロベスピエール──恐怖という「神的暴力」より p.173