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天使──証言の遂行者



使徒的人間―カール・バルト

使徒的人間―カール・バルト

富岡幸一郎 著『使徒的人間 カール・バルト』は、プロテスタント神学者カール・バルトの「思想」について概観した本であるが、その第17章ではバルトの「天使論」についてページが割かれている──バルトは「天使博士」と呼ばれたトマス・アクィナスを上回る量の「天使の教義学」を書いた人物であった。

ヘブル書1章14節には「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために遣わされたのではなかったのですか」とある。すなわち天使は「仕える霊」であり、それはイエス・キリストとの関係において、奉仕するために、遣わされた──それが天使の本質だ。
バルトは、天使は「霊であること」によって規定されるのではなく、特定の奉仕を果たすために「遣わされたもの」であると述べる。天使は……それ自身が神の霊ではない、世の審判者ではない、世界を創造したのではない、「救いの歴史をも、世の歴史をも、どのような生の歴史をも支配しない」。天使は、全ての地上的な被造物がそうであるのと同じように、厳格な意味で神の被造物──天における神の被造物なのである。

……彼ら自身天的な力であるとすれば、その時には、神自身の一つの力の代表者としてそうなのであり、神自身の一つの力の啓示の中で、実証の中で、そうなのである。彼らはまさに決して中心のところに入らない。彼らは中心のところを開けておく。彼らは、むしろ、中心のところを、ただひとりそこにいることができる方にたいして自由に開けておくところのものである。彼らは、ただ来たり、そして、神のこの自由のために気を配った後、再び去って行く。彼らは決して自分自身を、注意を引くものにしない。

この証人としての奉仕こそ、天使の本質がある。天使という言葉のギリシャ語には、本来「天の」使いという意味ではなく、ただ「遣わされた人」との意味がある。イエス・キリストによって召喚された、地上の使徒たちが、自分たちの内なる霊的なあるいは人間的な力によって語り行動するのではなく、自らはただ「空洞」として、中心ではなく、非中心的実在であるのと同じく、天使たちも「天」にあってそのような使徒職の本質をもつ。
したがって、「天使」という言葉のなかに含まれる、使者、報告を伝える物、告知をなす者、証言の遂行者という意味こそ、むしろ強調されなければならないとバルトは言う。




富岡幸一郎使徒的人間 カール・バルト』(講談社) p.280-281


ところで、同じ神の被造物でありながら、天使と人間はそれぞれ相対する「優位性」を持っている。天使たちは、地的な被造物=人間とは違って、いかなる「自主独立性」ももっていない──それこそが、完全に神に所有されることによって、「聖なる非自主性」としてある。「決して自主独立に、自分だけで存在し、行動しない。彼らはいかなる自分自身の歴史も、自分自身の目的も、自分自身の成功も持っていない」。それゆえ「完全に神に属しているので……いかなる意味においても自分自身に属していないという点で」もって、地上の被造物以上なのである。
一方、地上の被造物である人間は、「神に属しつつも、他方、また自分自身にも属すことがゆるされる」。有限性──歴史に先立つ場面と歴史のあとの場面から、歴史の中へと入って来ること。他者が、愛が、すなわち倫理的なものが問題となるのは、この地上の被造物の世界においてである。

ここから神学における倫理学の問いがはじまる。それは天使にたいする人間の「優位性」、すなわち神の前での自由(Freiheit vor Gott)への問いである。それは「もし神が存在しなければ全てはゆるされている」という、被造物の神喪失による「出口なし」の地獄の自由ではなく、人間であることは、神の前での応答責任をとることを意味する、その「自由」の本質へと接近することだ。




使徒的人間 カール・バルト』 p.284