HODGE'S PARROT

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『ヨハネ受難曲』を聴いて



ヨハネ受難曲』もグットくる演奏があった──最近投稿されたようだ。
J. S. Bach - Johannes Passion (1)


で、この演奏会を収録した動画を見終わった後、何気に related にあった別の『ヨハネ受難曲』の映像を見たら……そこで使用されていた映像はメル・ギブソンが監督した映画『パッション』(The Passion of the Christ)からのものだった。
J.S. Bach, Johannes-Passion BWV 245 "Herr, unser Herrscher"


このショッキングな「問題作」──まるでグリューネヴァルト磔刑図を実写化したような──を見て思い出したのが、大村恵美子氏がその著書『バッハの音楽的宇宙』で述べていた「受難曲」に対する二律背反的な思いだった。

私が特に最初の出会いで抵抗を感じたのは、「殺せ、殺せ」と血気にはやる群集役をした合唱が、ひきつづいて歌うコラールで、「何というひどいことをするのでしょう」と信者の立場に立ち返って、さとりすました同情を吐露する。そういう偽善的な二重性が、たまらない感じだった。
また、神の子が確かに現実に、人間の裁きによって殺されたという事実を強調するあまり、殴ったとか、罵倒し嘲ったとか、槍で突き刺したとか、ありとあらゆる現場のサディスティックなシーンを、これでもかこれでもかというように克明に描き切る。演じながら、快哉を何度となく反復し実は楽しんでいるのではないか。そんなふうに思われたりもするのである。


ところが、正統的な解釈によると、このように人間の恥ずべき振舞、救いがたい愚行で、イエスの高貴さがいやましに深く浮き彫りとなり、また「誰がこんなことを」と憤るそばから、「主よ、それは私なのです、主にこんな苦しみを負わせ、そしてその犠牲の血によって、主は私に永遠の生命を購ってくださったのです」と告白する、これが信仰の奥義だとされる。
無反省、同調、神への裏切り、改悛、目ざめ、回心、信仰、忠誠、という複雑な経路を辿りながら、人間は神の愛を受け入れるに至る。





大村恵美子『バッハの音楽的宇宙』(丸善ライブラリー) p.107 *1


なるほど。このような視点を踏まえると、メルソンの映画こそは実に「正統的な解釈」に則った(現代的なメディアによる)受難劇だったのだな。

Bach J.S: St. Matthew Passion St. John Passion

Bach J.S: St. Matthew Passion St. John Passion



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*1:

バッハの音楽的宇宙 (丸善ライブラリー)

バッハの音楽的宇宙 (丸善ライブラリー)