HODGE'S PARROT

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不幸な弟子意識



風邪をひいてしまったので、部屋に閉じ込もってデリダでも読もうかなと思う──なんでも、デリダを読むだけで、良いことがありそうなので、本棚からデリダ関連の本を取り出してみた。

で、古いのから新しいものへ。というわけで、まず、『エクリチュールと差異』より「コギトと『狂気の歴史』」のページをめくった。フーコーの大著『狂気の歴史 古典主義時代における』を批判したものだ。冒頭、デリダはまず、「弟子意識」について述べている。この「独白」がなんだかとても印象的だった。

それ(フーコーの『狂気の歴史』)は、まことに多くの点において驚嘆すべき書物、力強い息吹と文体を兼ねそなえた書物でありまして、かつてたまたまミシェル・フーコーの教えを受けたことがあり、讃嘆と感謝の念をもった弟子としての意識を依然として抱いているわたしにとりましては、それだけにまたいっそう恐るべき書物なのであります。


ところで、この弟子意識というものは、師と議論するとまでいわぬにしても、対話をはじめるか、あるいはむしろ、これまで果てしもなく続けることによってみずから弟子となった、いわば沈黙の対話を述べはじめるときには、不幸なる意識となるのであります。人びとのあいだにあって対話をはじめる、すなわち口答えをしはじめると、本来、またその名の示すように、まだものの話し方もわきまえていないために、とりわけ口答えなどしてはならない子供のように、いつももう間違えを抑えられているような気がするものなのであります。また、いまのような場合がそうであるように、こうした対話が、異議申立てと──誤って──解される惧れのあるようなときには、弟子は、すでにもうそれだけで、おのれの内部で自分の声に先立つ師の声によって自分だけが否定されてしまうということを心得ているのであります。果てしなく否定されるか、非難されるか、責め立てられるような気がするのです。
つまり、みずからを弟子としてみれば、自分のなかで自分よりも先に話しはじめ、そうした異議申立てをすることを責め、その異議申立てを自分の前に展開してみせて、前もってそれを非難してくれるところの師によって、そうされるのであります。また、みずからを内部の師と考えてみれば、同時にまた弟子でもあるおのれによって否定されることにもなるわけであります。弟子のこの尽きることのない不幸は、おそらく、真の人生と同じように、師とはおそらくいつも不在なものなのだということを知らないか、あるいはみずからにまだそのことを隠しているために生じてくるのでありましょう。


そこで、そのガラスを、というよりもむしろ鏡を、その反映を、弟子が師について行う果てしのないその思惑というものを、破毀してしまわなければなりません。




ジャック・デリダ「コギトと『狂気の歴史』」(『エクリチュールと差異』より、野村英夫 訳、法政大学出版局) p.59-60

弟子であるデリダは師であるフーコーを批判している。しかも「みずからを内部の師と考えてみれば、同時にまた弟子でもあるおのれによって否定されることにもなる」のだし、だから「鏡を……破毀してしまわなければなりません」と書く。それが不幸なのだ、と。

デリダによれば、フーコーはあたかも「「狂気」という語が何を意味するのかを知っているかのように」書いている。つまりフーコーは、理性、すなわち狂気の他者──彼自身の使う二項対立が信頼できるとして──を代弁している。しかし彼は「狂気そのもの」を代弁しようと願い、「〔狂気の〕沈黙についての考古学」を書くことを願う。これは単なるレトリック以上のものにはなりえないだろう。なぜなら、考古学は言説を通じてなされるので、理性の構文法を狂気の沈黙の上に押し付けてしまうからだ。


(中略)


デリダによれば、デカルト反省的コギト──「われ思う」が反省され表明される以前ののコギト──に「狂気」という名を与える。前反省的コギトにおいては、「狂気」と「われ思う」は、交換可能、代替可能である。そこでは理性と狂気の区別は現れない。また、「コギト」は伝達されえないし、私自身のような別の自己に対して現れるようにすることもできない。
しかし、デカルトがコギトについて語り反省し始めると、彼はそれに時間的次元を与え、狂気から区別する。前反省的コギト(それはまた狂気でもある)と時間的コギト(狂気から区別される)の関係は、こうして、先行了解された存在問題と、存在に関する命題化された概念の関係に類比できる。言説の可能性は、一方から他方への──「過剰さ」から「閉じた構造」への──限りなくくりかえされる運動の中に宿っているのだ。これを認識しないフーコーは、対立を通じて探求する構造主義的科学の中に閉じ込められている。



ガヤトリ・C.スピヴァクデリダ論』(田尻芳樹 訳、平凡社ライブラリー) p.135-137 *1

デカルト的な疑いと《コギト》のなかに、未聞の独特な過剰さの、未決定なるものと《無》と《無限》へと向かう過剰さの、考えうるものの全体性やきまった実存性と意味の全体性や事実の全体性などをはみでる過剰さの、こうした企図がその尖端をあらわしてくるにつれて、それだけ、なんらかのきまったある歴史構造のなかにその企図を還元し閉じこめようとするすべての試みは、いかに包括的であろうとも、その本質的なものを失い、その尖端そのものを鈍くしてしまうおそれがでてくるのであります。そうした試みが、こんどはその企図に対して暴力をふるうおそれがでてくるのです(というのも、合理主義者における暴力や、意味つまりよき意味における暴力というものも存在するからである。そしてフーコーが決定的な形で示しているのもおそらくそのことなのである。なぜなら、彼がわれわれに語っている犠牲者たちは、つねに意味の使者なのであり、きまった《良識》によって、充分には分割せずに早く決定しすぎる《分割》の良識によって、隠され抑圧された真のよき意味の本当の使者たちであるからである。つまり、意味と意味の根源を失ってしまうような全体主義的で歴史主義的な型の暴力をふるうおそれがでてくるのです。
全体主義的》というのは、その語の構造主義的な意味においてなのですが、この語のもつ二つの意味が歴史のなかで符号となっていないかどうかはたしかでありません。構造主義的な全体主義は、ここでは、古典主義時代の暴力と同じ型のような《コギト》の監禁作用をおよぼすでありましょう。




デリダ「コギトと『狂気の歴史』」 p.110-111


デリダはこのようにフーコーを追撃するのだが、しかし問題は(不幸な弟子意識を持ってしまうのは)、ほんとうはとてもシンプルなものなのではないか。すなわちデカルトの解釈──その解釈の「正当化」をめぐって、問題が生じているのではないか。デリダが問題としているのは、彼自身述べているように、フーコーの673ページにもなる大著の中のわずか3ページについてである。それは「些細で人為的なものと思われる」かもしれないが、しかし「フーコーの企図全体のもつ意味は、暗示的でいささか謎めいたこの数頁の箇所に集約される」のだ──「この企図は、フーコーの物語る物語の側にあるのであって、物語られた物語の側にではないのです

まず第一に──デカルトの意図に関してそこに提出されている解釈は正当化されるか? という、いわば偏見の問題であります。ここで解釈というのは、一方ではデカルトが言っていること──あるいは彼が言っているか言おうとしたと人の考えていること──と、他方では、当座は故意にきわめて漠然とした言い方をしておきますが、よくいわれるようにある《歴史的な構造》、意味の充実したある歴史的な全体、デカルトの言ったこと──あるいは彼が言っているか言おうとした人の人の考えていること──を通じてとくに指摘しうると人の考えている全体的な歴史的意図と、この両者のあいだにフーコーが提起しているある移行、ある意味論的な関係のことなのであります。




デリダ「コギトと『狂気の歴史』」 p.61

エクリチュールと差異 上 (叢書・ウニベルシタス)

エクリチュールと差異 上 (叢書・ウニベルシタス)

*1:

デリダ論 (平凡社ライブラリー)

デリダ論 (平凡社ライブラリー)