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デリダは何と言っているのか



『生きることを学ぶ、終に』で、ノエル・マメール市長による同性婚容認を「ためらわずに署名によって支持した」デリダが、同書でホロコースト否定論について何といっているか記しておきたい。

ジャン・ビルンバウム──この観点から(大学の無条件的自由に対する絶対的な要求)、ガス室の存在とショアーの現実性を否定する否定論者たちのケースをどのように考えるべきでしょう?



ジャック・デリダ──あらゆる問いを提出する権利はあります。その上で、問いに応答する仕方が偽造や明らかに事実に反する断言を言い募ることであるなら、その挙措がもはやまっとうな知や批判的思考に属さないものであるなら、その場合には事情は違ってきます。それは能力欠如あるいは正当化されない道具化であって、その場合には制裁を受けることになります。出来ない生徒が制裁を課されるように。教授資格を持っているからといって、大学で何を言ってもよいということにはなりません。
しかし、問いを提出し、再検討する可能性は、大学に残しておかなくてはなりません。もしフォリソン*1が、単に、「私が歴史研究をする権利を残しておいて下さい、私にあれこれの証言を言葉通り信じない権利を残しておいて下さい」と言っただけなら、私としては、彼に仕事をさせておくことに賛成したでしょう。彼が、大量の証拠に反して、これらの批判的問いから、確証され証明された真理の観点からは受け入れられない断言へと移行すると主張するときには、その場合には、彼は能力が欠如していることになります。その上、悪事を働いていることに。しかし、まず能力が欠如しているのです。したがって、大学で教授を自任するにはふさわしくないということになります。その場合には、討論は不可能です。しかし、原則として、大学は、批判的討論が、無条件的に開かれたままでなくてはならない唯一の場所であり続けています。それこそが、私が固執する遺産なのです。たとえ私の大学への関係が複雑なものであったとしても、それはヨーロッパの、そしてギリシャ哲学の遺産であり、他の場所で生まれたものではありません。そして、この哲学を主題として私が提起するあらゆる脱構築的問いにもかかわらず、私はそれに、ある種の〈然り〉を言い続けており、けっしてそれを投げ捨てることを提案したりはしないでしょう。
哲学にも、ヨーロッパにも、私が背を向けたことは一度もありません。私の挙措はそれとは別のものです。私はけっして言わないでしょう──私の視線を追って下さい──「ヨーロッパを忘れなさい、哲学よ、さようなら!」とは……。私がけっして、「婚姻は社会の基本的価値である」とは言わないのと同様に。




ジャック・デリダ 『生きることを学ぶ、終に』(鵜飼哲 訳、みすず書房) p.58-60

生きることを学ぶ、終に

生きることを学ぶ、終に





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*1:ロベール・フォリソン(Robert Faurisson, 1929-)は1970年代からナチスによるユダヤ人絶滅政策、とりわけ収容所におけるガス室の存在を否定する論文を多数発表、フランスの代表的なホロコースト否定論者とみなされる。P・ヴィダル=ナケ『記憶の暗殺者たち』(石田靖夫 訳、人文書院、1995年)参照。