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カブトムシと宗教的体験



言語ゲームとしての宗教

言語ゲームとしての宗教


先日の続きで、星川啓慈 著『言語ゲームとしての宗教』を少し読み進めた(なかなか一気に読めないなあ)。「私的言語」──規則に「私的に」従う──と宗教的体験の相似を分析した部分である。メモしておきたい。

まず、(P.M.S.ハッカーによる)ウィトゲンシュタインのいう「私的言語」のまとめは以下のようになる。

  1. 私的言語の語は、その話し手だけが知りうるものを指し示す。
  2. 私的言語の語は、その話し手の直接的で私的な感覚を指し示す。
  3. 他人はその言語を理解することができない。
    (『言語ゲームとしての宗教』より p.78)

こうした「私的言語」について、ウィトゲンシュタインは『哲学探究』で、「かぶと虫」の例を持ち出し、その問題点を指摘する──「かぶと虫」は私的・内的体験を象徴している。

さて、人はみな、私に自らについて「自分はただ自分自身についてのみ、痛みの何たるかを知っている」と語る。〔ここで〕人はみなある箱をもっており、その中にはわれわれが「かぶと虫」と呼ぶあるものが入っている、としよう。〔そして〕誰も他人の箱の中を覗くことはできず、しかも、みんな自分のかぶと虫を見ることによってのみ、かぶと虫の何たるかを知っているのだ、と言っている〔としよう〕。


この場合、各人が自分の箱の中にそれぞれ違ったものを持っていることだって、可能ではないか。いやそれどころか、〔箱の中に入っていると言われる〕そのようなものが絶え間なく変化していることだって、想像できよう。しかしこの時、これらの人々の「かぶと虫」という語が〔それにもかかわらず〕ある一つの仕方で使用されていたらどうであろう


その場合には、その〔語の〕使用は、たんにあるものにつけられた名称としての使用ではなかろう。箱の中に入っている〔と言われる〕そのようなものは、そもそも、言語ゲームの一部ではないのである。さらに(「かぶと虫」としてではなくたんに)あるものとしてすら、言語ゲームの一部ではないのだ。なぜなら、その箱の中に入っている〔と言われる〕そのようなものを飛び越えて、〔いわば〕「短縮される」こともできる。〔その場合には〕そのようなものは、たとえそれが何であろうと、〔言語ゲームからは〕消え失せてしまう。
すなわち、もし人が感覚の表現の文法を「対象と〔それにつけられた〕名称」というモデルにしたがって解釈すれば、その対象は〔言語ゲームとは〕無関係なものとして考察の視野から脱落するのである。
私的体験について本質的なことは、本来、〈各人が自分固有の標本を持っている〉ということではない。〈他人もこれを持っているのか、それとも何か別のものを持っているのか、誰も知らない〉ということである。(『言語ゲームとしての宗教』より p.80-81)

各人の私的体験がまったく異なっていても、あるいは、ある人の私的体験が時間の流れとともに大きく変化しているような場合でも、例えば「痛い」という語が使用される可能性がある。さらには、たとえ痛くなくても「痛い」という語を使うこともできる。
したがって、私的体験とそれを表現するという二元論的モデルにのっとってなされる研究は破綻をきたすことになる。
なぜか。理由の一つとして考えられるのは、私的言語にはその真偽や正しさを保証する客観的・公共的な規準が存在しないから、である。

自分が身体のある箇所に痛みを感じたら、その都度「E」という記号を日記なりカレンダーなりに書き込むとしよう。いわば、「記号と感覚との結合を自分の心に刻みつける」ことだ。しかし、これはウィトゲンシュタインによれば「このような過程が将来その結合を正しく私に思い出させる、ということでしかない」。この場合には、実際のところ正しさの公共的規準などないのであり、「正しい」ということについて語ることができないのである。「〈内的な過程〉は外的な規準を必要とする」とか「(誰もが理解できる)正当化とは、ある独立した所に訴えることのうちにある」と言われるように、外的・公共的な規準の欠如した正当化は正当化たりえないのだ。


さらに、これを言語使用は「規則にしたがう」という視点からいえば、「規則にしたがっていると信じていること」と「(現実に)規則にしたがっていること」とは同一の事柄ではないのである。私的言語が従っていると思われる規則はどこまでも私的なものでしかないのであり、言語が成立するための公共的な規則に従っているのではないのだ。私的言語は私的規則にしたがっているのであるが、〈この私的規則という概念は虚構である〉という点が重要である。




星川啓慈『言語ゲームとしての宗教』(勁草書房) p.82

規則に私的に従うことはできない──こうした私的規則なるものは、規則の「印象」と区別がつかない。たとえ「私が規則にしたがっているという」印象をもつとしても、その印象を正当化できなければ、事実として「この規則にしたがっている」ことの保証を与えることはできない。正当化のためには、「客観的で独立した証拠に訴えことになければならない」。そうでなければ、「今日の朝刊に真理が書いてあるのを確かめるために、それを何部も買う」ことと同じになってしまう。

こういったウィトゲンシュタインによる「私的言語」批判を「知ってしまった」後、では、私的言語としての宗教体験を語る言葉はどうなのか。もちろん、宗教体験をウィトゲンシュタインがいう「私的体験」と見なすこと、宗教体験を語る言葉を「私的言語」と見なすことについて、慎重になっておいたほうがいい。著者は、まず、J.ワッハの『諸宗教の比較研究』から、宗教体験とほかの体験とを区別するための規準を示す。

  • 宗教体験は、あらゆるものを条件づけたり支えたりしている、究極的な実在として体験されるものに対する応答・反応である。
  • 宗教体験は、究極的な実在にたいする、統合された全人格存在の全体的応答・反応である。
  • 宗教体験は、人間に可能な体験のなかで、もっとも強烈、もっとも包括的、もっとも衝撃的、もっとも深淵な体験である。
  • 宗教体験は、動機づけと行動のもっとも強烈な源泉であり、命令をもふくむ。
    (『言語ゲームとしての宗教』より p.85-86)

その上で、宗教体験は、ヴィトゲンシュタインのいう「私的体験」であり、それを語る宗教体験談は「私的言語」と見なしうる──宗教体験は「それを話している者だけが知りうるもの、つまり彼の直接的で私的な感覚」であり、宗教体験は「他人は誰も理解しないけれども、自分は〈理解しているらしい〉音声〔・文字・文章〕」だと考えられる、すなわち、それは、「他人はこの言語〔他者の宗教体験談〕を理解することができない」ということになる。
ウィトゲンシュタインも『断片』で次のように記している。

「神が他の人に語りかけるのをあなたは聞くことができない。ただ、あなたが神から語りかけられる場合にのみ〔あなたは神の言葉を聞くことができるのだ〕」──これは一つの文法的解釈である。(『言語ゲームとしての宗教』より p.87)

そして「ここまでの議論」において(後に修正があるが)著者の結論は、ウィトゲンシュタインの私的言語批判の視点から見れば……

  • 宗教体験それ自体とそれを表現していると考えられる言葉とのあいだには〈対応関係が成立している〉〈この関係を保証しうる〉とは言えない──つまり〈他者の私的領域が存在しつづける限り、言語を媒介とする他者の宗教体験の理解可能性の根拠はない〉である。
  • 他者の宗教体験を理解しようとする宗教学者宗教哲学者は、原理的に不可能なことを成し遂げようとしている──およそ他者の宗教体験を、それが語られた言葉を媒介として理解しようとする試みは、言語の限界に逆らって進むことである。


いちおう念のために書いておくと、ウィトゲンシュタインはある私的体験の「ある」「なし」を述べているのではない。それを「理解するために」必要なことの条件について思考している。例えば『哲学探究』には次のようなことが書かれている。

人は或る動物が怒り、恐れ、悲しみ、喜び、驚いているのを想像することはできる。だが望んでいることを想像することは? では、なぜできないのか。
犬は自分の主人が戸口にいると信じる。しかし犬は、主人が明後日帰宅すると信じることができるか。──それではこの場合、犬は何ができないのか。──私の方はどうやってそれをするのか。──これに対して私はどう答えるべきか。
話すことのできる者だけが、望むことができるのか。或る言語の使用に通じている者だけが。すなわち希望の諸現象はみな〔話すという〕この錯綜した生活形式の様態である(或る概念が人間の筆跡の特徴を目指したものなら、その概念は書くことをしない存在者に対しては適用されない)。



黒田亘 編『ウィトゲンシュタイン・セレクション』(平凡社ライブラリー) p.176 *1




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*1:

ウィトゲンシュタイン セレクション  平凡社ライブラリー

ウィトゲンシュタイン セレクション 平凡社ライブラリー