HODGE'S PARROT

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「キリスト教神学は科学的か?」



オックスフォード大学神学部歴史神学教授およびウィクリフ・ホール*1の学長を務める、アリスター・E.マクグラスAlister McGrath の講義録『ポスト・モダン世界のキリスト教―21世紀における福音の役割』に、カール・バルトとハインリッヒ・ショルツ/Heinrich Scholz の間でなされた「キリスト教神学は科学的(wisesenschaftlich)か?」という論争に触れているところがあった──ここではプロテスタント神学だ。

まず、カール・バルトが、

  • キリスト教神学は、その研究対象に対して適切な方法を用いるという意味で、科学的でありうる
  • 科学の諸分野の境界線を越えて普遍的に適用できるような方法論を展開することはふさわしくない
  • キリスト教神学に固有の対象を定め、それに特有な性質に見合った方法論を用いることが重要

と主張。1927年の『キリスト教教義学』の中でバルトは、ハンス・ハインリヒ・ヴェントの見解を批判する──ヴェントは、科学的知識は、それが取り扱う主体には左右されず、分野が何であれ、多かれ少なかれ同じ方法論を適用できると主張していた(当時の新カント主義に依拠)。
つまりバルトは「キリスト教神学に固有な主題」を尊重、

どのような科学の領域(Gebiet)においても、客観的真理を確立するための方法論、認識の相互関係の類型、批判の基準、証明の可能性の選択を決めるのは、問題とする対象の性質(Eigenart des betreffenden Gegestandes)であった、決してその逆ではない。前もって定められた方法論や科学上の事実に対象を無理やり一致させることではないのである。(『ポスト・モダン世界のキリスト教』より p.190)

これに対し、ハインリッヒ・ショルツは、「どのような神学でも、もしそれが科学であると主張するならば、次の三点を満たすべきである

  1. 神学を含むどんな科学も、検証可能な命題のかたちでその信念を述べなければならない。
  2. そのような諸命題はリアリティ(実在)のただ一つの局面のみに関わるべきである。
  3. 神学的言明によってなされる真理主張は、その定式化の際に使用される批判的原理に対してテストされ確認されるべきである。

さらにショルツは、科学(Wissenschaf)は、その命題を原理(axioms, 根本的命題)として、また、その原理から演繹される定理として説明しなければならない、と指摘する。

で、マクグラスはというと……両者の意見にはいずれも正しい部分がある、と述べる──「合理的思惟は伝統に媒介されている」、一方、「自然科学には多層的な性質がある」。

例えば、ショルツが、神学上の言説によって立つ基本的原則は検証されテストされなければならないというとき、それは正しいのです。神学的言説といえども、魔法のようにどこからともなく出現することはないのです。それにどのような歴史的起源があり(ショルツの議論は、この点については弱いのですが)、その言説に論理的一貫性があるかないかを、批判的に検討しなければなりません。


しかし、また大きな問題もあります。ショルツには、根本的命題からの演繹を第一とする「基礎づけ主義(foundationalism)」の知識観がみられます。


(中略)


神学は根本命題を定式化しなければならないというショルツにとっての至上命題は、明らかに数学と論理学との類比で言われており、啓蒙主義に深く根ざす方法論の理解に立っています。ショルツをたんなる無批判な合理主義者だとは断定しませんが、彼の論には一貫して、ある程度普遍的方法論が可能であるという前提があります。


バルトは、正しくこの点を突いたのです。神に関する科学としての神学に適用される諸条件をアプリオリに設定することはできない。また、神学の全体性を損なわずに、他の学問分野から規範や作業仮説を引いてきて神学に当てはめることができると想定することもできない。




A.E.マクグラス『ポスト・モダン世界のキリスト教』(稲垣久和 訳、教文館) p.191-192

訳者の解説によれば、マクグラスはその著書『科学的神学』(A Scientific Theology )で「科学的神学は一つの公共神学(a public theology)である」と述べているという。

……「科学的神学」は、従来の神学を長い間の知的ゲットーから解放し、自然の秩序とその解釈者たち(科学者たち)との対話を促すものである。
神学は従来のように信仰共同体の中にのみとどまるのではなく、その長い伝統のなかにある知恵を公共的論争の場にさらし、今日の「自然」の解釈に一役買うべきだ。「普遍的理性」がヨーロッパという一地域の文化概念としてしか有効性がなかったのであれば、「神の創造」というキリスト教の伝統は、今後いかなる合理性を獲得しうるのか。この伝統をより広い文化的コンテクストにおいてみて、キリスト者も公共の場の論争に参加すべきではないか。このようにして「科学的神学は一つの公共神学」となるのである。



「監訳者あとがきと解説」 より p.271

ポスト・モダン世界のキリスト教―21世紀における福音の役割

ポスト・モダン世界のキリスト教―21世紀における福音の役割