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論理実証主義とキリスト教



星川啓慈 著『言語ゲームとしての宗教』を読んでいる。この本は、ウィトゲンシュタインの「私的言語」と「言語ゲーム」という哲学的知見によって、宗教──ただしそのモデルは一貫してキリスト教だ──を見つめなおす、という試みである。以前読んだ、音楽をめぐる議論を宗教におきかえたらどうなるのだろう、という興味を惹く。
で、ウィトゲンシュタインの「後期の」思想に突入するまえに、その第一章「言語と宗教」において、まず、「語られるもの」と「語りえないもの」という区別からの議論が紹介されている。ちょっとメモしておきたい。
まずは論理実証主義により宗教批判とそれに対する応答。
論理実証主義は、「命題は経験的に検証可能である場合にのみ字義上の意味をもつ」という検証主義を武器にして、形而上学的な命題や思惟を「無意味」なものとして葬り去ろうとした*1。例えば、A.J.エイサーは次のように書く。

ある文章[命題]がほんものの経験的仮説を表現しているか否かを試すために、私は[ゆるやかに]修正された検証原理とでも言うべきものを採用する。というのは、私は、経験的仮説にたいして、それが決定的に検証可能であることは要求せず、ただ、その真偽の決定にさいして何らかの感覚──経験にかかわることを要求するのみだからである。もし問題の命題がこの原則をみたさず、しかもトートロジーでもないなら、それは形而上学的であるとする。
そして、形而上学的であるということは、真でも偽でもなく、文字どおり無意味だということである。……とりわけ、非経験的な価値の世界が存在するとか、人間は不滅の霊魂をもっているとか、超越的な神が存在するとかいうことは、確信していても意味をもちえないのである。*2


著者はこういったことをふまえ、論理実証主義者たちのキリスト教に対する要求を次のようにまとめる。

  1. キリスト教の諸命題が、経験的に有意味であることを示せ。
  2. それらは、感情を表現したり刺激したりするものではなく、事実にかんする情報を伝達するものであることを示せ。
  3. それらは、論理的矛盾をふくまず、整合的な体系をなすものであることを示せ。

これらに対する反論として、まず、「有意味の条件として検証可能性を要求すること自体が検証不可能」が挙げられ、他に、

  • R.B.ブレイスウェイト──キリスト教の言明は倫理的・道徳的なものであって、ある行動や生き方をすすめている。キリスト教で使用されている言語は、事実を記述する言語とは本質的に異質な言語である。
  • I.ラムジー──キリスト教で使用される言葉の「論理的逸脱性」(logical oddness)こそは、宗教的洞察を獲得しうる要因である。
  • J.ヒック──キリスト教は死後の生命の存続という信念をふくむ。これは、真ならば検証可能(死後)、偽ならば反証可能ではない。
  • D.Z.フィリップス──キリスト教の言語を話すということは、キリスト教という生活形式を受け入れることである。キリスト教はそれ独自の言語使用をともなった自律した生活形式だから、外部からの批判となりえない。(『言語ゲームとしての宗教』p.12-13)


次に「日常言語」と「宗教言語」の区別をめぐる議論について。ここでは単純に「日常・日常性」とはいったいどういうことなのか、ということが明確にされない限り、「日常言語」の定義は不可能で、これは「宗教言語」にしても同様である──かりに宗教言語を<宗教的な脈絡で生起したり使用されたりする言語のこと>と定義しても、「宗教的な脈絡」とはいったい何であるかを確定できなければ、厳密には宗教言語の概念規定はできない。

さらに、「日常・日常性」と「宗教・宗教性」という一見では対立概念とも思えるものが、実際には対立概念ではない場合も想定できる。たとえば、イエス・キリストの「日常的な」生活は「宗教的な」生活ではないのか。また反対に、彼の「宗教的な」言動は「日常的な」言動ではないのか。彼のような例外的な人物でなくとも、「日常・日常性」と「宗教・宗教性」が判然としない状況がいくつもあることは、言をまたない。

まず、このように、「日常言語」と「宗教言語」という概念自体が明晰・判明なものではないことを念頭におくべきである。しかし、だからといって、両者が複雑に入り交じっている事態を解きほぐす試みが無意味なことである、ということにもならない。われわれがまず行うべきことは、そうした試みである。




星川啓慈『言語ゲームとしての宗教』(勁草書房) p.20


言語ゲームとしての宗教

言語ゲームとしての宗教





[関連エントリー]

*1:ついでに、大庭健 著『はじめての分析哲学』(産業図書)を参照すると、論理実証主義の関連で、《分析的/総合的》という二分法についての説明がある──すなわち《分析的》な理性的真理と、《総合的》な事実的真理という二種類に分けて考える方法である。
●”事実をいちいち調べなくても〈語の意味〉のみによって真偽が定まる”と言えるような命題→《分析的》命題
●”事実を調べてみないと、単に語の意味のみによっては真偽が決まらない”命題→《総合的》命題

そこから「真な文は、世界の実在と対応しているがゆえ
に真な「総合的」な文と、語の意味ゆえに真である「分析的」な文という、二種類にわかれる」。

>>
……〈論理ないし信念システム〉とは、具体的には「思考の現れ」である「文」のシステムでありますが、その際に「文」のみが意味を持つとされて、語の意味は「指示対象」に吸収されてしまいます。そして、「文の意味」とは、事態の存立・非存立のことであり、かつ、文の中の「語によってのみ決まる」とされます。すなわち、「語」は、世界の要素としての事態の要素、つまり実体的事物を「指示」する〈名〉なのでありまして、この「語」の〈意味イコール指示対象〉と文の形式のみによって、文の意味は決まってくる、というわけです。

(p.70-71)
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はじめての分析哲学

はじめての分析哲学

*2:A.J.エイヤー『言語・真理・論理』より