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マルクス主義とキリスト教徒の「収斂」



平行してフィリップ・ベリマン著『解放の神学とラテンアメリカ』を読んでいる。フィリップ・ベリマン(Phillip Berryman、b.1938)は1965年から1973年までパナマ市のスラム街で司祭を務めていた人物だ。その第9章では「マルクス主義の利用」と題され、マルクスの分析がどのように「解放の神学」に取り入れられているのかが説明されている。メモしておきたい。

マルクス主義教条主義的な、答えの決まったイデオロギーではない。それは試行錯誤をつうじて疑問をとぎすましていくのに役立つ。
その一例が「状況分析」という実践である。司牧活動に従事するラテンアメリカの人びとが活動計画を立てるときには、まず「情勢」(coyuntura)の分析から始める。これは一定の期間──数週間、数ケ月、または数年──を指す言葉で、とくに社会の諸勢力のからみ合いのあり方を言う。司牧活動家たちは、ふつうは軍、政府、企業集団、政党、労組、組織農民、学生、教会──つまり社会のあらゆる組織された勢力を観察する。さらに、国際情勢も関わりがあれば考慮する。自由なおしゃべりと異なるのは、さまざまな勢力をひとつの方法論に沿って学問的に分析しようと努力する点だ。その目的は、人民勢力の闘いや自分たちの司牧活動を全体のなかに位置づけることにある。
このような「状況分析」が非常に実践的な目的をもつこともある──たとえば、聖職者のグループが声明を出したり行動に立ち上がったりすべきか否かを決める場合などである。「正しい」答えはない。当事者が状況を判断し、どのように行動すべきかを決めなければならない。このような「状況分析」がマルクス主義的になるのは、そこでは構造分析や階級分析が体系的に利用されているためである。




フィリップ・ベリマン『解放の神学とラテンアメリカ』(後藤政子 訳、同文舘出版) p.182

ヒンケランメルトは、資本論におけるマルクスの物神崇拝の分析をとり入れている。人間はまず初めに、みずからの生存のために「使用価値」を生み出す。たとえば食べるための作物がそうである。だが、一定の時点には「交換価値」のために物を生産し始める。そのときに物神崇拝は始める。人間はみずから生産した商品に支配される。商品は明らかに一人で行為する「主体」となる(たとえば世界市場で「踊る」コーヒーなど)。
これにたいし、生きた人間は、物となる。商品を生産する人びと──労働者──は分裂させられ分散させられて、団結を妨げられる。「金銭崇拝」、「資本崇拝」となると事態はいっそう悪化する。ヒンケランメルトの『死というイデオロギー的武器』は、マックス・ウェーバーミルトン・フリードマン、カール・ポッパーなどの思想家の「物神崇拝」にたいするきびしい批判となっている。
(ウーゴ)アスマンもヒンケランメルトも共に、マルクスの物神崇拝分析には宗教的イメージが用いられていると強調する。こうして、金自体がしばしば「神」となり、神性となり、あるいは偶像やマンモンとなる。マルクスは資本をモロク、すなわち人間の犠牲を要求する偶像とみなしている。
アスマンは、これらは単なる文学的表現ではない、物神崇拝は資本主義を理解するための本質的カデゴリーであると強調する。世界は逆立ちしており、現実は理解しがたい。人びとには社会現象の本質は見えず、外観しか見えていない。

物が人を動かしている。物神崇拝は物を主体に変え、主体を物に変えているからである。マルクスは資本主義のこの基本的特徴を「宗教的とりちがえ」(quid pro quo)と名づけた……。資本主義体制は現実を物神化するため、その本質からしてきわめて偶像崇拝的である。

革命は本性からして「無神論的」である。なぜなら、偶像を玉座から追放し棄教へと向かうからである。「人を殺す偶像をとり除かなければ命の神への信仰は存在しない」。





『解放の神学とラテンアメリカ』 p.194-195

解放の神学の心髄はその霊的特性、すなわち宗教観にある。それは、貧者の苦しみや闘いのなかにおける神の体験である。解放の神学に関する著書はそうした宗教的体験や宗教観を説明──ときには擁護しようとしたものである。





『解放の神学とラテンアメリカ』 p.197

解放の神学とラテンアメリカ

解放の神学とラテンアメリカ





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