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ゲンリヒ・ネイガウスの『クライスレリアーナ』とサマセット・モームの『サミング・アップ』



DENON の「ロシア・ピアニズム名盤選-14」*1は、ゲンリヒ・ネイガウス(Heinrich Neuhaus/Genrich Gustawowitsch Neigaus、1888 - 1964)によるロベルト・シューマンの『クライスレリアーナ』とフランツ・リストピアノ協奏曲第2番が収録されている。素晴らしい演奏だ。

なんといってもシューマン。『クライスレリアーナ』は僕を熱狂させてくれる最強の音楽で、いろいろと聴いてきたが、その中でもゲンリヒ・ネイガウスのこの演奏は、とくに気に入っている。ドラマティックで凄味がある。同時に、その演奏には得もいえぬロマンとノスタルジーが宿っている。気分は目まぐるしく変化する。第1曲の、まるで突然発生した竜巻のようなエネルギーに圧倒され、第7曲の攻撃的なまでのアタックにガツンとくる。そして最後の第8曲では戯れに満ちたフモールを利かせるが──ギクシャクと、気ままに、「クラシック音楽の文法」と異質な(感じの)まるでジャズのような、即興的で、「ノイズ」を響かせる──が、後半の「Con tutta forza」(全力をこめて)では、打って変わってまさに全力でピアノを鳴らし切り、盛大に荒れ狂い、凄まじい悲劇が襲う。凄い迫力だ。ああ、これが──この激情こそがシューマンだな、と心底思わせてくれる。たまらない。

「あなたはわたくしの気もちにぴったり合わせてくださいましたのね、クライスラーさま!──そうですわ、こうなればわたくしには、あなたの噴きだしてくるフモールというのも納得できますわ。──あなたのフモールはおみごとです、事実おみごとなものですわ!──じつにさまざまな感覚、まったく相容れない感情どうしが軋轢葛藤するときにのみ、ますます高い生命がひらけてくるものです!





E.T.A.ホフマン『牡猫ムルの人生観』(深田甫 訳、創土社)p.250 *2

牡猫の自伝は一貫していて、合理的なまでにプラグマティックであるが、クライスラーの伝記は架空の伝記の書き手によって書かれ、その性質にしたがって断篇となっている。牡猫ムルは可愛げがあって単純明快で、自分の伝記を語るにも自惚れたご満悦の調子もあらわに言葉をもちいている。啓蒙と感傷のその言語は博識にして感情ゆたかな牡猫としてムルの意のままにできるものであるが、その実、猫たるものの左右できる語法をつうじ作者ホフマンによってカリカチュアライズされているのである。

これに対してクライスラーは引き裂かれた存在で、<この世界とこの世界の矛盾にみちた現象との二元性に圧しひしがれている>存在なのである。


クライスラーとは<まったく対照的にムルはみずからの教養小説の教養信望者で、学識と芸術の教義の原理をオプティミスティックにいつでも信じている。ときにはいろいろな悩みに窮することはあっても、瑣末な日常性のうえをうごきながらぺちゃぺちゃお喋りをしてすぎてゆく生活を我がものとしているのである>

クライスラーはそれとはちがって、<純粋な芸術的気質を具現していて、まさにそれがゆえに悲劇的な形勢をになっているのであり、社会から誤認された人間であり、いやそればかりか、誕生にさいしてもそうであったように、地上での現存在がやがて後になればなるほど悲痛にゆがめられてグロテスクなものに化してしまうような迫害される人物なのである。ムルが環境世界にみごとに適応する非凡な才能をもっているのにたいし、天才クライスラーは適応性のない人間なのであり、地上においては異邦人なのである>




ベノ・フォン・ヴィーゼ「E・T・A・ホフマンの二重小説『牡猫ムル』──フモールの想像力──」(創土社『ホフマン全集 7 牡猫ムルの人生観』解説より) p.801


CDのブックレットによれば、あのリヒテルが──あれほどシューマンに意欲的に取り組んだピアニストが『クライスレリアーナ』を弾かなかったのは、ネイガウスによる演奏があったからだという。



そんなロシアのピアニスト*3、ゲンリヒ・ネイガウスの名前を意外なところで目にした。サマセット・モーム(Somerset Maugham、 1874 - 1965)の岩波文庫版『サミング・アップ』の解説においてである──「たしかモームヘンリー・ジェイムズについて何か書いていたな」とページを捲っていたのだった。

サミング・アップ (岩波文庫)

サミング・アップ (岩波文庫)

この訳者の行方昭夫氏によるモームの解説に、ニヤリとした人も多いだろうと思う。なんといっても日本における「特殊なモーム受容」、すなわち「受験英語モーム」について述べられているからだ。それは一つの秀逸な「文化論」だと思う──そしてそれは不思議とノスタルジックな気分を呼びさますのだ。

読者の中には、本書(『サミング・アップ』)を通読している間に何度も「これは前に読んだことがある」と思う人もいるかもしれない。内容に印象を受けて記憶していた表現の出所が本書だと発見して、驚く人もいるだろう。本書ほど日本で大学入試問題や予備校の模擬テストに出題された本も少なくないのだ。本書の約四分の一ほどを対訳版にした本が1956年に出て、受験生必読の書として三十年以上にわたって毎年版を重ねていた。*4





行方昭夫 岩波文庫版『サミング・アップ』解説より p.365-367


「これは前に読んだことがある」という感覚──過去の感覚。実は僕も『人間の絆』(Of Human Bondage)を読んだのは、駿台予備校が出していた受験用参考書が最初だった。そしてその英文解釈だか長文読解だかに載っていた『人間の絆』(の一部)を読んでとても感動したのを覚えている(思い出した)。その丁寧な読解を基本とした解説も素晴らしかった。今ちょっと「駿台 モーム 人間の絆」で検索してみたのだが、はっきりと出てこなかったので著者名がわからないのだが、とにかく、多感な時期に素晴らしいテキストを紹介してくれたことに、とても感謝している。

で、ゲンリッヒ・ネイガウスであるが、行方昭夫氏によれば、ネイガウスは『サミング・アップ』を原語(英語)とロシア語訳の両方で読んで感銘を受け、

彼自身が自伝的な書物を執筆する際に「モームの『サミング・アップ』にならって自分の人生を総括する……一般の自伝とは異なる精神的自伝として書く」と述べているほどである。




サミング・アップ』解説より p.369

またネイガウス以外にも、例えばギリシャ哲学の第一人者、田中美知太郎がモームについて好意的な批評をしていたりと「モーム人気」の裾野の広さを感じさせる。さらに1959年、モームが来日し約一ヶ月間滞在したときの「世話役」がフランシス・キング(Francis King、 b.1923)だったりと、「モーム(秘密)情報」に事欠かない。グッジョブなテキストだ。
ちなみにモームヘンリー・ジェイムズについて次のようなことを記している。

私は英語散文の参考書をいくつも読んでみたが、あまり役立ったとは言えない。大部分のものは曖昧であり、不必要に理論的であり、しばしば読者を叱るような調子である。その点、ファウラーの『英語慣用辞典』は違う。これは価値の高い書物だ。どれほど自分の文章に自信がある人でも、きっとこの本から学ぶことがあるに違いない。読んで楽しい本でもある。ファウラーは簡潔さと率直さと常識を好んだ。気取りは容赦しなかった。慣用句が言語の骨格だというまともな考えを持っていて、生きのよい語句を好んだ。彼は盲目的に理論を尊重する人ではなくて、文法の厳密な規則にも拘わらず慣用を優先させるのを厭わなかった。


英文法はとても難しいので、作家の中で文法上の誤りを犯さない者はまずいない。例えば、ヘンリー・ジェイムズのようなとても慎重な作家でも、時にはひどく文法無視の書き方をした。小学校の児童の作文にそんな誤りを見つけたら、教師は当然怒るところである。文法を知ることは必要であり、文法的に正確に書くほうが、そうしないよりもいい。しかし、文法というのは、もともと多数の人が使っている言葉の用法を系統立てたものであることは覚えておいたほうがいい。慣用が唯一の規準である。私は平易で気取らぬ語句のほうが、文法的に正確な語句より好きだ。





サマセット・モームサミング・アップ』 p.53




[関連エントリー]

*1:http://columbia.jp/russian/

*2:

*3:ゲンリヒ・ネイガウスはドイツ系で──したがって「ハインリヒ・ノイハウス」でもある──ウィーン音楽アカデミーで学んでいる。しかしそのため、第二次世界大戦中の1941年に彼はドイツ系という理由で逮捕・投獄され、1944年までスヴェルドロフスクに流刑になった「体験」を有している。また、ポーランドの作曲家カロル・シマノフスキはネイガウスの従兄である。

*4:朱牟田夏雄 訳『サミングアップ―しめくくり』(金星堂)

サミングアップ―しめくくり (英米作家対訳双書 (805))

サミングアップ―しめくくり (英米作家対訳双書 (805))


朱牟田夏雄『英文をいかに読むか』(文建書房)
英文をいかに読むか

英文をいかに読むか