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小説家・中村真一郎



読むたびに新しい発見がある──なんて言い草は、ちょっと気恥ずかしいのだが、やはりヘンリー・ジェイムズの心理描写は「凄い」の一言だし、その小説はまさに「アート」としか言いようがない。ジェイムズの小説こそ、究極の芸術である。
で、ジェイムズの本をいろいろと読みたいのだが……しかしなかなか読めない。一部の作品が。

「<読めない本>のゲームをしようじゃないか」と彼は提案した。
「いいとも、おれからはじめるぞ──『ユリシーズ』」
ラブレー
「『トリストラム・シャンディ』」
「『黄金の盃』(金色の盃)」
「『ラセラス』」
「いや、あれはぼくの愛読書だ」
「こいつはおどろいた。じゃ、『クラリサ』はどうだ」
「よし。──『タイタス』──」 *1




エドマンド・クリスピン『消えた玩具店』(大久保康雄訳、ハヤカワ・ミステリ文庫) p.116-117

読めないのは、絶版になっているから……ではなくて(邦訳はほとんど持ってるし)、長いから……でもなくて(『ある婦人の肖像』も『金色の盃』も読んだもんね)、実は「重い」からなのだ。だって、一番まとまっている国書刊行会の選集の「重さ」といったら伊達じゃない。あんなもの持って出歩けないし、ベッドで寝転がって読むこともできない──あれはほとんど凶器として使えるシロモノじゃないか。

でも、まあ、短編なら「国書本」でも一気読みできるかな、と。
それで「ジェイムズ熱」が高まってきたところで、中村真一郎の『小説家ヘンリー・ジェイムズ』も読み返しているところ。

小説家ヘンリー・ジェイムズ

小説家ヘンリー・ジェイムズ

この本は、以前も書いたが、やはり名著だな、と思う。初期中期後期をまんべんなく、長中短編を網羅しながら、ヘンリー・ジェイムズ作品の「読みどころ」をあますところなく示してくれる──そのため、まだ読んでいない本でさえ、なんだか読んだ気させてくれるのだ。そして何といっても小説家・中村真一郎ならではの視点が鋭く、小説家(プロ)が小説家(プロ)に対峙したときの「本気さ」が実によく伝わってくる。例えば、次のようなところ。

ラシーヌのあの奇跡的詩句の美しさと完璧な形式は、私の一生の文学観を決定するに到った。そしてあの戯曲の本質である、いや、内容としてはそれだけしかないと言っていい、人物の間のチェスの指し合いのような明快極まる心理ゲーム、そこから生まれる悲劇──これは人間存在を心理的意識的抽象物として捉えるという、デカルトによって完成した考え方、いわゆるモラリストの哲学が背景にあるわけであるが──その小説への適用として生まれたのが、十七世紀の宮廷小説『クレーヴの奥方』からはじまり、十八世紀の暗黒小説のなかの『危険な関係』とか、十九世紀に入ると『アドルフ』から、偉大なスタンダールを通って、今世紀の『ドルジェル伯の舞踏会』や『エメ』に到る、他国に類を見ない心理小説の伝統である。


たしか私は当時の新進批評家ルネ・ラルーに導かれて、この系列の作品を二十歳代のはじめに既に文学史的にしらみつぶしに読みつくし、そうして実際の日常生活の対人関係で経験した心理的事実を、スピノザの『倫理学(エチカ)』の叙述にならって、単純な定義化を行い、それをカードにとって、そのカードを何枚も組み合わせ、トランプをやるようにして、架空の心理的取引きを空想して、小説を書こうという企てを、数年間続けたものだった。
この方法がやがて行き詰ったのは、人間というものは単なる合理的幾何学的な運動をする心理機械ではないということを、人生経験によって手ひどく教えられたことと、その結果、それまで比較的閑却していた、分析ではなく描写を主とした英国小説の流れへの没入がはじまったことによる。





中村真一郎『小説家 ヘンリー・ジェイムズ』(集英社) p.76-77


さすが小説家=プロだな。読書に対する「姿勢」からして違う。その貪欲さこそを見習いたいくらいだ──小説を読むことに限らず。そういった経験なりがあってこそ、あのような「凄い」小説を書けるのだな、と。
うん? そういえば……中村真一郎の小説は読んだことがなかった。なんだか、すっかり読んだ気になってしまっていた。

ヘンリー・ジェイムズについて、その創作技法の点で、私が話し合うことのできた唯一の相手は、少年時代の仲間の福永武彦だった。私たちの間で常に問題となったのは、プルーストの第一人称と、ヘンリー・ジェイムズの視点との関係についてだった。そしてその手法の、新しい現実性についてだった。


主人公の目だけを通して見た外界と、同じ主人公の内面での想像のイメージとだけから構成される小説は、私たちが実際にこの世に生きている意識の状態にそっくりであって、従来の客観的レアリスムの、サルトルのいわゆる作家が「神の位置にいる」描写は、それに比べると虚偽である、ということ、それに私たちが学生時代から最も小説の方法の上で参考となった『贋金作り』のジードの人称との関係など。


そうして、そのような討論が、明らかに福永の『死の島』という重要な作品に反映しているように思われる。その福永も、既に世を去っている。私がジェイムズについて語る相手は、だから若い未来の読者だけになってしまった。





『小説家 ヘンリー・ジェイムズ』 p.12-13



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*1:宮脇孝雄の『書斎の旅人 イギリス・ミステリ歴史散歩』によれば、サミュエル・ジョンスン(Samuel Johnson、1709 - 1784)の『ラセラス』(The History of Rasselas, Prince of Abissinia)は、母親の葬式代をひねり出すために書き飛ばした作品で、サミュエル・リチャードソン(Samuel Richardson、1689 - 1761)の『クラリッサ』(Clarissa)は英文学史上最も長大な作品だという。『タイタス』はシェイクスピアの、あまり人気にない『タイタス・アンドロニカス』だろうということだ。
ちなみにクリスピンの文学趣味で遊び倒した推理小説『消えた玩具店』は、オックスフォード大学の学友であった詩人フィリップ・ラーキン(Philip Larkin、1922 - 1985)に捧げられている。