HODGE'S PARROT

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ダビデのごとくピアノを弾くマイルズ



ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』(The Turn of the Screw)を読み返していたら、なるほど、と思わせる記述があった。マイルズが家庭教師を油断させるためにピアノを弾き、その間、フローラが「幽霊」に会いに「行って」しまった──と、家庭教師が思い込んでいる場面だ。

とても恐ろしいことになった日のこと、早めの昼食の後、マイルズがそばに来て、先生のために三十分ぐらいピアノを弾くよ、と言いました。この時ほど見事に少年紳士ぶりを発揮したことはありませんでした。あのサウルに琴を弾いたダビデに勝るとも劣らぬほどの勘所を押さえた演奏でした。寛大で気転のきいた好感の持てる申し出で、次のような語りかけによく合っていました。「ぼくたちの愛読する物語に登場する立派な騎士は、優位に立ったときでも決してうぬぼれてやり過ぎることはないでしょ。先生が今どういうつもりなのかは分っているよ。ひとりでいたいわ、人についてこられるのはいや、と先生自身が思っているものだから、ぼくのことを心配したり、こっそり偵察するのはもうやめようと思っているんでしょ? ぼくを先生のそばに置いておくのをやめて、自由に行き来させようというつもりでしょ? ほらね、ぼくは「来る」でしょ。でも「行き」はしない。行くまでにはまだたっぷり時間があるもの。ぼく、先生と一緒にいるのは楽しいよ。ぼくが先生に反抗をしたのはね、主義主張のためだったんだ。それを知ってもらいたいんだよ。」




ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(行方昭夫 訳、岩波文庫) p.294 *1

非常に巧妙に──何かを仄めかしつつ──書かれているが、ここは、マイルズは「行か」ず、私のところへ「来た」んだよ……と家庭教師自身が認識していることが窺える。何が、誰が「行き」「来る」のか? で、聖書を見ると、ダビデイスラエル王サウルとの関係は次のように記されている。

ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。




サムエル記上 16.21-23 (新共同訳『聖書』より)

なるほど。サウル王には霊がとり付いていたのか、それをダビデが竪琴を奏でて祓ったのか……とすると……。
ところで、このダビデとサウルの「関係」についてもうすこし深読みしておきたい。 Wikipedia を見ると、そこにスウェーデンの画家 Julius Kronberg(1850 - 1921)の描いた絵画作品《David and Saul》が掲載されてあって、これが眼を惹くのだ。
David and Saul (1885) by Swedish painter Julius Kronberg [Wikimedia]
上記はモノクロであるが、ジモン・マイール(Johann Simon Mayr、1763 - 1845)のオラトリオ《エンゲディの洞穴のダヴィデ》(David in the Cave of Engaddi)のナクソス盤CDのジャケットにこの絵が使われている。拡大して生々しい色づかいを確認しておきたい、ぜひとも。

David in Spelunca Engaddi

David in Spelunca Engaddi


そう。ダビデと彼の「アトリビュートである」竪琴が……なんとも……図像学的に……露骨な絵なのであるが……。

One of his famous paintings is David och Saul (David and Saul the King), a painting which is considered by modern scholars as strongly homoerotic.




Julius Kronberg [Wikipedia]

というわけで、これが『ねじの回転』におけるエドマンド・ウィルソンによる「ひねった」解釈──家庭教師の抑圧された性的妄想の物語であるとする解釈──を裏付ける「資料」にもなりそうだ。スティーヴン・スペンダーはウィルソンの解釈を引き合いに出しながらヘンリー・ジェイムズの「性への態度」について論じている。

中期の作品でジェイムズは小説の形式の問題に専念したが、ここで彼の性への態度は幻想のなかに逃げをうったかっこうだ。『メイジーの知ったこと』とか『やっかいな年頃』のような作品の意図、「生徒」とか「ねじの回転」のような物語には奇妙なあいまいさが漂っている。
『メイジーの知ったこと』のなかに巻いている異常な渦巻きの底流はひどく小児的な、抑圧された性の好奇心であり、「生徒」は同性愛の幻想であると結論したくなる。


「ハウンド・アンド・ホーン」誌のヘンリー・ジェイムズ号のなかで、現代批評のもっとも優れた書物の一つ『アクセルの城』を書いたエドマンド・ウィルソン氏が、「ねじの回転」は語り手の女教師の抑圧された性的妄想の物語だという説を詳細に展開した。もしそのとおりだとすれば、物語の性的形象はおどろくほどうまくできている。彼女の眼にうつる召使の姿は塔の上に出現し、しかも彼女が恋心をよせる主人の服を身につけている。彼女の前任者で恋敵の女教師の姿はつねに湖の背後に現れる。細目はすべて正確にフロイト的なのだ。

ただ問題は、かりにこれらの形象が意識して作られたにせよ、これほどまで正確にジェイムズがフロイトの先をこしていたとは考えられぬことである。おそるべき解釈だが、この物語を無意識のうちの性的幻想として考えるか、それともジェイムズがある直覚力をもって女教師の状態になりきり、その力が作者の意図した以上の深い意味を与えたと考えるかだ。




ティーヴン・スペンダー『ヘンリー・ジェイムズ論 初期作品の観察体験』(桂田重利 訳、筑摩書房版『世界文学大系 74』より)p.393

このスティーブン・スペンダー(Stephen Spender、1909 - 1995)のジェイムズ論は『破壊的要素』(The Destructive Element、1935)という著作の第一部である。で、そのスペンダーについても、フォーカスしておきたい。とりあえず、Wikipedia を参照すると……

Spender's sexuality has been the subject of debate. Spender's seemingly changing attitudes towards homosexuality and heterosexuality have caused him to be labeled bisexual, repressed, latently homophobic, or simply someone so complex as to resist easy labeling. Many of his friends in his earlier years were gay. Spender himself had many affairs with men in his earlier years, most notably with Tony Hyndman (who is called "Jimmy Younger" in his memoir World Within World). Following his affair with Muriel Gardiner he shifted his focus to heterosexuality,though his relationship with Hyndman complicated both this relationship and his short-lived marriage to Inez Maria Pearn (1936-39). His marriage to Natasha Litvin in 1941 seems to have marked the end of his romantic relationships with men. Subsequently, he toned down homosexual allusions in later editions of his poetry. The following line was revised in a republished edition:


Whatever happens, I shall never be alone. I shall always have a boy, a railway fare, or a revolution.


It was later revised to read:



Whatever happens, I shall never be alone. I shall always have an affair, a railway fare, or a revolution.


Spender sued author David Leavitt for allegedly using his relationship with "Jimmy Younger" in Leavitt's While England Sleeps in 1994. The case was settled out of court with Leavitt removing certain portions from his text.




Stephen Spender [Wikipedia]

……と、彼自身、その「交友関係」によって『ねじの回転』並みの「議論・解釈」が為されている人物であるようだ。しかも「バラした」*2デイヴィッド・レーヴィットを訴えたりもしているし。

The Temple

The Temple

スティーヴン・スペンダー日記―1939~1983

スティーヴン・スペンダー日記―1939~1983


そういえば、アンドレ・ジイドはダビデとサウルに基づく戯曲『サユル』(SAUL)を書き、それをイタリアの作曲家フラヴィオ・テスティ(Flavio Testi、b.1923)がオペラ化していた。このオペラにも幽霊・亡霊が、出る。

テスティ;サウル (2CD) (Flavio Testi: Saul)

テスティ;サウル (2CD) (Flavio Testi: Saul)

*1:

ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫)

ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫)

*2:

While England Sleeps

While England Sleeps