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ヘンリー・ジェイムズ『エドマンド・オーム卿』



『ねじの回転』では、本当に幽霊が出現したのか、それとも家庭教師=話者の妄想なのか、という議論が巻き起こるが、同じく幽霊が出現するヘンリー・ジェイムズの『エドマンド・オーム卿』(Sir Edmund Orme、1892)の場合、幽霊=サー・エドマンド・オームを目撃した者は少なくとも二人いる。といっても、この作品もある人物が書いた「手記」を発見した、という体裁を取っているのだが──そのようにテクストが巧妙に操作されている。
「ぼく」がシャーロット・マーデンという女性と結婚したいと思ったとき、そのときに、かつてシャーロットの母親に裏切られ自殺をしたサー・エドマンド・オームの幽霊が「ぼく」にも見えるようになった。この幽霊は、母親のミセス・マーデンをずっと脅し続けていた──彼女の娘が、母親と同じ「罪」を犯さぬよう監視していたのだ。しかし、オーム卿の幽霊は、シャーロットには見えない。見えるのは「ぼく」とミセス・マーデンだけである。そしてシャーロットが「ぼく」を受け入れ(つまり母親のように裏切ることなく)、同時にミセス・マーデンが死ぬと、エドマンド・オーム卿の幽霊も、消え失せる……。
……と、ストーリーだけを書くと何とも他愛もない「ゴースト・ストーリー」なのだが、しかしそこはジェイムズで、登場人物の「独特の」心理描写が、なんとも不思議な独特の読後感をもたらすのだ。果たして彼は「本当に」幽霊だったのか、と。
「蒼白い、紳士風の青年で、黒っぽい身なり」のオーム卿の出現は次のように描写される。

ぼくは彼のことを人物と言ったが、それは、うまく説明できないが、君主が部屋に入って来たというような感じがしたからである。彼は、自分はわれわれとはちがうのだといわんばかりに、一種習慣となった威厳をもって身を持していた。それでも彼はじっと重々しい表情でぼくを見すえたので、ぼくにどうしろというのだろうと気になってきた。僕が膝を屈めるとかその手に接吻をするのが当然だとこの人は考えているのだろうか? 彼はミセス・マーデンにも同じような視線を向けたが、夫人はちゃんと心得ていた。彼が近づいてきたための最初の昂奮が始まると、夫人はもう何も彼のことは知らぬ顔をした。





エドマンド・オーム卿」(柴田稔彦 訳 、国書刊行会ヘンリー・ジェイムズ作品集7』より)p.169

サー・エドマンド・オームが幽霊であると「ぼく」が理解したのは、ミセス・マーデンが彼のことを幽霊だと言ったからである──わたしが彼を殺したのです、と。そしてシャーロットが彼のことを無視しているからである。それが、彼が「幽霊である証拠」だ。そうでなければ、「ぼく」にとってオーム卿は「君主」のように存在感のある「人物」なのだ──それは「れっきとした、個体的で絶対的な一個の事実であった」。なにより、オーム卿は、シャーロットが「ぼく」を(彼女の母親がしたように)裏切らないように見守ってくれている「味方」なのである──と「ぼく」は信じる。だから「ぼく」はシャーロットにプロポーズできる。なんといってもオーム卿は「ぼく」の<利害>を理解している。彼の存在は「ぼく」にとってまったく「適切」なのだ。しかも彼には「美しさ」も備わっているのだから。

「すばらしい霊ですね。ここには霊が出るんですね──出るんですね」ぼくはその語がぼくの大事な夢の実現を意味しているみたいに、喜んでその語を発した。


(中略)



ぼくはテラスに出て行き、これからは芝居の役を演じねばならないと感じた。ミセス・マーデンの言う「正真正銘の霊」とまたでくわすことを怖れるどころか、ぼくははっきりと喜ばしい方の昂奮に包まれた。あの幸運にもう一度めぐりあいたいと願った。出会いを待って心を大きく開いた。まるでサー・エドマンド・オームに追いつけると思っているように、ぼくはいそいで館をまわって行ったのである。その時は彼に追いつくことができなかったが、その日が終わらぬうちに、ぼくは夫人が言ったように彼について知りたいことはすべて分ってくることになった。





エドマンド・オーム卿」 p.171-173

「若い紳士」であるオーム卿への「ぼく」の情熱は、シャーロットへのそれを上まわる。「ぼく」の「本当の理解者」は、この世の人物ではない──そのように思えてならない。





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