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オペラ《アメリカの悲劇》



ウォルト・ホイットマンの詩を用いたジョン・アダムズ作曲の《包帯を巻くのがわたしのつとめ(包帯係)》は、感動的な音楽で、ここのところ何度となく繰り返し聴いている。
そして、そのCDで素晴らしい歌唱を聴かせてくれているバリトンのネイサン・ガン(Nathan Gunn、b.1970)について調べていたら、彼がベンジャミン・ブリテンの《ビリー・バット》やアンブロワーズ・トマの《ハムレット》で主役を演じている他、プロコフィエフ戦争と平和》でアンドレイ公爵役*1、グノーの《ファウスト》でヴァランティン役、そして《アメリカの悲劇》でクライド・グリフィス役を歌っていることを知った。
アメリカの悲劇? そう、セオドア・ドライサー(Theodore Dreiser、1871-1945)の小説『An American Tragedy』を、アメリカの作曲家トバイアス・ピッカー(Tobias Picker、b.1954)がメトロポリタン・オペラの委嘱によりオペラ化したものだ。2005年に初演された。


このメトでの初演について『レコード芸術』(2006年2月号)に記事があって、それによれば「アメリカの、アメリカ人によるオペラ」というキャッチで、主役クライドはネーサン・ガン(ネイサン・ガン)、クライドの子を身ごもる貧しい女工のロベルタ(ロバータ)役にパトリシア・ラセット(ソプラノ)、令嬢ソンドラがスーザン・グラハム(メゾ・ソプラノ)、指揮はジェイムズ・コンロン。小林伸太郎氏の報告によれば大成功を収めたという。



ところでドライザーの『アメリカの悲劇』は「実際の」事件を元にしている。1906年に「現実に」アメリカで起きたジレット=ブラウン事件だ。スカート工場で働いていたチェスター・ジレットChester Gillette女工のグレイス・ブラウン/Grace Brown と恋仲になるが、ジレットは同時に裕福な一族の令嬢とも付き合っていた。そんな中、ブラウンはジレットの子を妊娠する──ジレットは結婚を迫られる。彼はアディロンダック山中のビッグ・ムース湖でボートを転覆させて、彼女を殺した。1908年、ジレットは処刑された。


Nathan Gunn & Patricia Racette in "An American Tragedy"

それにしても、何ということだ! この、クライド・グリフィスという男は! サミュエル・グリフィスの甥! 何がおれのなかへ「はいりこもうとして」いるんだろう? 人殺し! その通りだ。この恐ろしい記事──この悪魔の事故、もしくは陰謀がたえずおれの前を離れない! もっとも恐ろしい犯罪の一つ、ひっかかれば電気椅子にかけられるような犯罪。おまけに、おれが人を殺せるものか──いずれにしても、ロバータを殺せない。どんでもないことだ。あんな仲だったのに。おまけに──もう一つの世界!──ソンドラ──何とかしないことには確実に失うにきまっている──


クライドの両手がふるえ、目蓋がひきつった──そして髪のつけ根がずきずきして、体全体にぞっとする悪寒が走った。人殺し! 




セオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』(宮本陽吉 訳、集英社) p.233


Nathan Gunn, Susan Graham, Pat Racette,"An American Tragedy"


ロバータを殺そう、いや、よそう」と悩むクライドの心は、さらにいっそう深くアメリカ社会の根底にふれる矛盾と関係してくる。ソンドラへのあこがれにたんなる本能的・享楽的欲望以上のものが含まれている。たとえロバータを殺してでもソンドラの愛をかちとり、結婚の栄光をつかまなければ、クライドは社会の上層に出ることも経済的に成功することも望めない。
ここには、だれでも自由と平等が約束されている顔をして成功への夢を人々にかきたてておきながら、現実にはすでに貧富の差がはなはだしく、一部の特権階級や特別の能力に恵まれたものでなければその夢を実現することはむずかしい──こういった現代アメリカ社会の矛盾が濃い影を落としている。


(中略)


クライドの犯した行為にたいする罪がクライド個人をこえて、彼をとりまく家庭的・社会的環境から、さらにアメリカ社会全体にまでつらなっている以上、物語の結末近くになって「自分に罪はあるのか、ないのか」と苦悩するクライドがマクミラン牧師にすべてを告白しても、それで救いが得られるはずはない。たとえばドストエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフのように、犯行そのものがみずからの主体的自我から生まれた思想観念によって行われた場合には、自己の観念の誤りを感じキリスト教的な人間愛を受けいれて罪を告白すれば、救いを得ることができた。しかし、環境の刺激によって暗示や強制を受け、それに反応したにすぎないクライドは、個人的な煩悶や告白をいくら繰りかえしてみても、たんなる空まわりに終わるほかはない。クライドを救うための矛盾解決は個人をこえて社会そのもののなかに求められ、新しい社会秩序が発見されなければならないのである。





大浦暁生「ドライサー 作家と作品」(『アメリカの悲劇』解説より)p.390-392


セオドア・ドライサーは社会主義にコミットしていた。彼は1927年、革命十周年を迎えたソ連から招待を受けてソビエトを訪問、後に『ドライサー、ロシアを見る』(Dreiser Looks at Russia、1928)を出版した。1931年の『悲劇的なアメリカ』(Tragic America)では、大浦暁生「ドライサー 作家と作品」によれば、貧富の差がはげしく労働者や市民が抑圧されているアメリカを告発し、資本主義体制に代わるものとしてソ連の制度に修正を加えた「新しい社会主義による政治」を提案する。1932年の大統領選挙では共産党を支持、34年のカリフォルニア州知事選挙では、作家で社会主義者のアプトン・シンクレア(Upton Sinclair、 1878 - 1968)を支援した。
そして1945年、ドライサーはアメリ共産党(CPUSA、Communist Party USA)に入党する。


[CPUSA - Communist Party USA]

A Theodore Dreiser Encyclopedia

A Theodore Dreiser Encyclopedia





それにしても……オペラ《アメリカの悲劇》の映像を見ると、ネイサン・ガンって、歌だけではなく演技と肉体も魅せてくれる歌手なんだな、と、一挙にファンになった──映画版『陽のあたる場所 A Place in the Sun』のモンゴメリー・クリフトにも匹敵するような*2。DVDは出てないのか?



[An American Tragedy]


[Nathan Gunn]


just before sunrise

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