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”えすぺれ・ぱんた・ぺろーん” サッポーの歌



ドイツの作曲家ハンス=ユルゲン・フォン・ボーゼ(Hans-Jürgen von Bose、b.1953)の『サッフォーの歌』(Sappho-Gesänge、Songs of Sappho、1983年)を聴いた。

Bose:the Night from Blei

Bose:the Night from Blei

  • アーティスト:Bose
  • 発売日: 1993/04/01
  • メディア: CD


『サッフォーの歌』は、メゾ・ソプラノと室内管弦楽のための音楽で、古代ギリシアの詩人サッポー(Sappho、ca 630?)の「断片詩」がテクストとして採用されている。このギリシアを代表するレスボス島(Λέσβος、Lesbos)出身の詩人の作品の多くは失われ、『アプロディテへの讃歌』も欠落が多いのだが、しかし、まさにその「特異なトルソ」(peculiar torsos、不完全な作品)こそ、作曲家ボーゼの霊感を刺激した。
それぞれの断片(fragments)が持つ、明快な意味。そして、断片と断片のギャップ──そこには、本来は、「そのギャップを埋める」失われた素材があるはずだ。ボーゼは、そういった欠落した部分のあるテクストの構造を音楽化しようとした。したがって『サッフォーの歌』は、通常の意味における完全な構造を持つ音楽ではない。解説によれば、そのコンセプトは「開かれたもの」(open)と「不確定なもの」(indeterminate)という形態にある。ドナウエッシンゲン音楽祭/Donaueschinger Musiktage での初演で、ボーゼは、「一つの目、一つの耳、一つの鼻、半分に切られた口」が映っている写真をプログラムの編集者に送付した──これは「不完全な自画像」なのである、と。

真の意味でのトルソ・テーマの登場は、古代の「断片」との遭遇という歴史的出来事を経てからのことである。「断片」というのは、シュモルの前掲載*1に収められたアンドレ・シャステル「断片・怪奇・未完成」のいい方を借りれば、「完全に力を出し切らなかった形態というよりも、いわば事故に会った形態である。それはいったん完全に実現されて、その後、何らかの外部からの力によって変更され、切断され、一部破壊されたものである。その外部からの力というのは、自然力であることもあり得るし、時間、すなわち歴史によるものであることもあり得る。したがってそれは、一部消失させられた形態と言うことができるであろう」(高階秀爾訳)。


自然力も時間のなかで作用するわけであるから、要するに通常「断片」といい習わされているものは、われわれのいい方によれば、時間の偶有的作用によって構造的破壊をこうむった崩壊像のことである。




谷川渥『形象と時間 美的時間論序説』(講談社学術文庫) p.54-55




そういえば、呉茂一氏の訳した「ぎりしあ抒情詩人 さっぽう」にも、欠落部分があるにもかかわらず、なんとなく「意味の明瞭さ」semantic clarity を感じ取れる断片があった──「断片と断片のギャップ」があるがために、その詩は、そのつどそのつど、ありありと<再生>する。

……………
……………立派な贈り物を少女たちが
……………歌に親しい、音のさはやかな竪琴を
……………肌へをはやもう老齢が
……………頭髪は黒い……………
……………膝は(もうはや)運んでくれない
…………………………仔鹿にもひとしい





呉茂一『ギリシア・ローマ抒情詩選 花冠』(岩波文庫)p.186*2


ただ……普通に現代音楽している、というか新ウィーン楽派の歌曲が美しいというならば、このハンス=ユルゲン・フォン・ボーゼの音楽は、それに劣らず美しいという感じだ。とりわけ不協和音の使用が絶妙で、それが不思議と美しい。高音のソプラノではなく、低音も利かせる「女声」の、語るように歌い、歌うように語る発声も印象的であり、多彩な楽器の煌びやかな音色と打楽器のアクセントが、独特の得難い雰囲気を醸し出している──安易に「神秘的」「異教的」という言葉を使いたくないが、この音楽は、理詰めで押し進めていった結果*3、「西洋音楽・近代音楽」以前の音楽の響きを獲得した、という感じだ*4。そしてその精妙な響きをこのCDで聴かせてくれるのは、「あの」ペーテル・エトヴェシュの指揮アンサンブル・モデルン、メゾ・ソプラノは Liat Himmelheber だ。
『サッフォーの歌』はボーゼの作曲の師であるアリベルト・ライマン/Aribert Reimann に捧げられている──その友情に感謝して、と。

[Hans-Jürgen von Bose]



ところでサッポーはレスボス島の出身であり、その詩はレスボス島の方言で書かれてあるという。もちろん僕はギリシャ語がわからないので、それがどんな「響き」をするのかもわからないのだが、北嶋美雪 編訳『ギリシア詩文抄』の解説で中井久夫氏がサッポーの原詩の一部を「ひらがな表記」で記してくれている。なんだかそれがとてもいい響きだった。リズミックであった。音楽的であった。ちょっと引用しておきたい。

夕星よ/光をもたらす暁が/散らせしものを/そなたはみなつれ戻す/羊をかえし/山羊をかえし/母のもとへ子をつれかえす



えすぺれ・ぱんた・ぺろーん、おさ・ぱいのりす・えすけださうおーす、
ぺれいす・おりん・ぺれいす・あいが、ぺれいす・あびゅ・まーりて・ぱいだ。





中井久夫「解説─蜜の泉の贈りもの」(『ギリシア詩文抄』解説より、平凡社ライブラリー) p.244-245

ギリシア詩文抄     平凡社ライブラリー

ギリシア詩文抄 平凡社ライブラリー

  • 発売日: 1994/06/01
  • メディア: 新書

サッチャー政権末期の大学は、政府の文教予算の大削減で、イギリス中の大学は悲鳴をあげんばかりにあえいでいた。窮境はロンドン大学も例外ではなかったが、その中で営々と続けられていた研究は、オックスフォード、ケンブリッジ同様、 Classical Tradition
を着実に受け継ぎつつ、これに付け加えることを目指した高度のもので、両大学の出版局や篤志の出版社はこの事業を確実にバックアップしていた。それはうらやましいというより一種の感動であった。ギリシア・ローマの古典が古代末から中世の破壊と貧困と迫害の中で生き延びてきたからくりを垣間見たようでもあった。」


──古代ギリシア人が創造したものは、それ自身が秀逸であるばかりでなく、文明が弱体化したり、崩壊の危機に曝されたりした時には繰り返し再生の強靭なバネになりうると確信するがゆえに、人々はあらゆる艱難に耐えて、新たに開拓し、付け加え、後世に伝える努力を現代でもなお惜しまない。




北嶋美雪「ギリシア再訪の旅」(『ギリシア詩文抄』平凡社ライブラリー版後記より) p.238-239





[関連エントリー]

*1:J.A.シュモル『芸術における未完成』

*2:

ギリシア・ローマ抒情詩選―花冠 (岩波文庫)

ギリシア・ローマ抒情詩選―花冠 (岩波文庫)

  • 発売日: 1991/11/18
  • メディア: 文庫

*3:ボーゼは、13歳でリヒャルト・シュトラウスを模倣した作品を書き、16歳でヒンデミットを、18歳で12音技法を「模倣」していた。彼にとって現代音楽の語法は特別なものではなく、普通のものであった。

*4:古代の楽器を「復元」し残されたパピルス断片を読み取り「修復」した、グレゴリオ・パニアグワ &アトリウム・ムジケー古楽合奏団による『古代ギリシャの音楽』などを聴くと、そこから非常に現代音楽的な響きを感じ取れて、面白い。

Musique de la Grece Antique

Musique de la Grece Antique

  • アーティスト:V/C
  • 発売日: 2000/06/26
  • メディア: CD