HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

「何のために」それが欲しいのか



エリザベス・アンスコムの『インテンション』では行為と意志について「突っ込んだ」議論がなされているのだが、「欲求」に関して論じている部分があった。メモしておきたい。
例えば、
「ヘッフォード市場に良いジェーシー種がいる」という命題がまず前提としてある。この場合に「何のためにジェーシー種が欲しいのか」と尋ねうる。
その答えが、
「ジェーシー種が私の要求にぴったりと合うのだ」である。
それはつまりこういうことだ。

  1. 私が所有しているような農場の持ち主なら、誰にでもしかじかの性質の牛は有用である。
  2. 例えば、ジェーシー種はそのような牛である。

アンスコムは、ここにおいて、「『あなたにとって有用なもの』を何のために欲しいのか」というさらに突っ込んだ質問の余地はない、と述べる。つまり、与えられた前提は欲求されたものを「望ましいものとして規定」しているからだ。


しかし例えば「私は泥の皿が欲しい」とか「私はトネリコの枝が欲しい」と語る場合を想定したらどうだろう。その場合にも「何のために?」という尋ねられるだろう。「自分は何かのためにそれが欲しいのではなく、ただ欲しいだけだ」というのが答えだとする。これには「欲求された対象がどういう点で望ましいのか」という疑問が常についてまわる──質問者は納得できない。
もちろん獲得できるものであれば、何であれそれを「得ようと努める」ことはできる。その動作の意味は「所有」である。彼の欲求はそのようなものとして、ある。そのようなものとして理解可能である。だから「私は泥の皿が欲しい」と語ることは、できる。

ところで、「私は……が欲しい」という発言はしばしばあるものを手に入れる手段でもある。したがって、ある人が突然「私はピンが欲しい」と言い、しかも、「何かするためにそれが欲しいのではない」と語る場合、彼にピンを渡し、それをどうするか観察してみればよい。


彼はピンを受け取り、ほほ笑んで「ありがとう、これで満足です」と言ったとする。──だが、それを置いて、そのまま忘れてしまったとしたら、彼がピンを欲しがっていた、というのはどのような意味で真だと言えるのだろうか。
彼は「ピンが欲しい」という言葉を使い、その結果ピンが与えられた。しかし、われわれが彼にピンを渡す労を取ってくれるかどうかを確かめようとしたのではなく、彼が本当にピンが欲しかったのだ、と言うどのような理由があるのであろうか。




G.E.M.アンスコムインテンション』(菅豊彦 訳、産業図書) p.135

私たちが知りたいのは、それ(ピン)を持つこと(所有)がどういう結果をもたらすか、である。「何のために」、「どのような望ましい規定」がそこにあるのか、である。

そこでアンスコムは、「何のために?」という問いが発せられなくなる地平──「望ましさの最終段階」ともいうべき例を記す。

あるナチス党員達が罠に陥り、やがて捕らえられて自分達は殺されると観念しているとする。彼等の回りにはユダヤ人の子供達が数多くいる。そのナチス党員の一人がある場所を選らび、臼砲を捉え付ける。
「何故この場所を選んだのか。」
「かくかくの性質をもつ場所は……が為せるし、この場所その性質を供えているから。」
「何故臼砲を捉え付けるのか。」
ユダヤ人の子供達を殺す最も良い方法だからである。」
「何故ユダヤ人の子供を殺してしまうのか。」
「死ぬはめになったとき、自分の死の間際の時間をユダヤ人を殺すのに使用することはナチス党員にとってふさわしいことであるから。」(私はナチス党員である。今私は死の間際である。ここにユダヤ人達がいる。)


ここでわれわれは「何のために?」という問いを終わりにさせる、望ましさの最終段階の性格づけに到着したのである。





インテンション』 p.137-138 

インテンション―実践知の考察

インテンション―実践知の考察