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昨日の世界のコピーのコピー



きのう何食べた?(1) (モーニング KC)

きのう何食べた?(1) (モーニング KC)

実は昨年のうちに、『のだめカンタービレ#19』と一緒に、よしながふみの『きのう何食べた?』を六本木の本屋で購入していた。そして年末年始の休みに読んだ。レビューらしきものを書かなかったのは、個人的に、良くも悪くも「騒ぐほどのもの」ではなかったからだ──「不快」ではなかったし、かといって「感動」したわけではない。「ふーん」という感じだった。もちろんゲイが主役であり、しかも肯定的に描かれているので、こういう作品の登場は歓迎したい。これは偽ざる気持ちだ。
ただし好きかどうかは別だ。そもそも僕はマンガというメディアが苦手なのだ──マンガを「読めない」「読めてない」という批判は甘んじて受けるつもりだ。実写/映画の方に断然関心を抱く僕にとって、『Queer As Folk』のようなTVドラマがある以上、ゲイが登場するというだけで、そういったマンガを読みたいとはそれほど思わない。それだけだ。
で、今頃になって『きのう何食べた?』を取り上げるのは、「ための議論」──「問題設定」のためである。そして批判的に取り上げたいのは、このマンガにおける「同性愛者/ゲイの表象」ではなくて「異性愛者/ストレートの表象」である。

第6話。他のストーリーがゲイ/ゲイ・カップルの視点による「自分たちゲイの物語」であるのと異なって、この第6話は、ゲイという自分たちとは性的指向を異にする人間に遭遇した異性愛カップルの話である。視点はあくまでも、男女カップルである。彼らが「ゲイをどのように見ているのか」がよくわかる──あるいは作者が異性愛者をどのように表象しているのかも、だ。

例えば、p.105 。ホストクラブの「ナンバーワン」が実はゲイであった。「ナンバーワン・ホスト」のマンションでアルバイトの異性愛男性は、まず「ゲイかどうか」を問われることもなく、いきなり「ネコかタチか」を問われ、「ナンバーワン・ホスト」がゲイであることを「唐突に」知る。男性のマンションに男性が誘われ、そこでいきなり「ネコがタチか」と問われたら、ある種の「言語ゲーム」を共有していない者にとっては、それは驚くべきことであろう。作者はそういった「空間」を「自然に」構成している。いきなりシャワーを浴び、ガウンを着て「で、お前らどっちなの?」と「自然に」尋ねる「ナンバーワン・ホスト」のすね毛が目立つのは、いい。だって彼はゲイなんだから。豹柄のクッションに、ふかふかの絨毯も、そんなもんだろうと思う──それが作者の考える「リアリズム」であろう。しかし「異性愛者特有の感受性」を表す描写は、「リアリズム」を超えたところにある。異性愛男性にとって「ナンバーワン・ホスト」のまわりには蘭の花が乱舞しているのが「見える」。まるで男性器のような花々がゲイ男性のまわりに取り付いている──それがストレートの青年が「どのようにゲイを見ているか」の表れである。リアリズムを超えたところにある「幻想」──作者は異性愛者の幻想を饒舌なまでに表現する。
さらにゲイに遭遇したストレートの行動も、作者は巧みに饒舌に描写する──頭を抱えながら「ヒーーー!!」と驚愕のセリフが「マンガならではの」大きな文字で大々的に表現される。もちろんこの大袈裟な描写は、異性愛者が同性愛者に遭遇した場合の「規範」を忠実に再現しているのだろう。一種の、しかし必須の儀式(プロトコル)なんだろう。なんといっても異性愛者なのだから、これくらい驚いてもらわなくては困る──それこそが異性愛者に課せられた規範なのである、パフォーマティヴに。
作者は二つのコマで、ゲイに遭遇したストレート男性の驚愕を饒舌に表した後、次にそれを「穏当に冷静に対処する」ストレート男性の姿も忘れずに提示する──自分の妻にそのことを「理論的に」報告するのだ。

まあ「どっち」っていうのはタチかネコかって事なんだけどさ。


え、だってその人ホストなんでしょ?


イヤホストって結構そっちの人間がいたんだよ
女心がよく分かるうえに
女には惚れないだろ
女と寝るのも金のためと思えば何とかなるし





p.105

ホストという仕事において、容姿や教養も含めたバックボーンも重要だと思うのだが、ゲイのホストにとっては「女心」なるものをわかっているという「能力」がア・プリオリに配置され、「女に惚れないのに、しかし女とセックスはできる」という「特技」が無条件に付与されるだけで十分なのである。彼/女にとって「ゲイがどのように見えているのか」をいったいどのように自覚しているのか、いないのか。

ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951 (講談社現代新書) 命名という言語現象に関する通俗的な見解とは、「何かに名を与えるとは特別の心的作用であり、名はこの作用を通じある不思議な仕方で対象に結びつけられている」というものである。これを神秘的命名観と呼ぼう。

我々が神秘的命名観に立つ限り、なぜ子供に命名ができるのが両親だけなのか、なぜ隣人が両親に先んじて徹夜で心的命名作用を行って彼らの子供に命名できないのか、なぜある人が台風に自分の子供の名をつけられないか、等は全くの「謎」として残るだろう。



ところがいったん我々が命名と名というものが言語を構成する重要な制度であり、その制度の下でどのような種類の対象にはどのような人間がどのような状況で命名でき、その後その名がどのように使われるかがあらかじめ決定されているということを思い出せば、これらの「謎」は全て消滅する。子供には両親が命名し、地震や台風は気象庁命名する、これが我々の「名」という制度なのである。こうした制度の外部で、ある個人が何かに命名しようと注意を集中したり、名前をくり返し唱えたりするなら、その行為は王制の存在しない国での戴冠式のごとく、無意味な儀式かパロディーでしかない。

ウィトゲンシュタインによる次の私的感覚の命名過程の記述は、私的命名がまさにこうした無意味な儀式であることを示している。

……それでも私は自分の私的感覚に直示的定義を与えることができる。──どうやって? 自分の感覚を指差せるのか? 普通の意味ではできない。しかし私は記号を口から発し、あるいは書きとめ、同時に感覚に注意を集中し、いわば内的に感覚を指示するのだ。──しかしその儀式はなんのためのものなんだ、だってそれは儀式にしか見えないよ。(『哲学探究』258)





鬼界彰夫ウィトゲンシュタインはこう考えた』p.318-319




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