HODGE'S PARROT

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良心と「内面のモニター」



ドゥルシラ・コーネル/Drucilla Cornell の『自由のハートで』(At the Heart of Freedom)を読み返している。コーネルは「イマジナリーな領域」(Imaginary Domain)という鍵概念で、「現実における」様々な政治的課題に取り組んでいる──とりわけ僕が関心を抱いているのは、ゲイの結婚や養子をもつ権利についてである。
このところ僕が気にかけている<良心>についての言及があったのでメモしておきたい。

私が良心という言葉を用いるのは、政治的にリベラルな社会の中である人格に与えられた、彼女にとってよい生き方とは何かを「自己認証する源泉 self-authentificating source」として自分自身を主張する自由、という意味においてである。良心はパーソナリティ(personality)にとっての「聖域」であり、その中では、唯一の存在である私たちが”誰”であるかは、私たちが人生を──それへのコミットメントや、基本的な諸価値、諸々の責任とともに──私たちのものとして設計する仕方を切り離すことができない。


こうした定義に従えば、良心とは、道徳的法則に合致するように命じる単なる生来の道徳的能力ではない。それどころか、良心は、私たちがいかに自分の人生を導くかを教える「内面のモニター」を発達させるのである。
私たちが複雑な道徳に取り囲まれた世界の中で一つの人生を設計しようと試みるとき、私たちは人生を決定する大きな問いに向き合わざるをえないが、その答えを得るために自分自身を頼りにしようとするときに参照されるのが、この「内面のモニター」である。
私が「内面のモニター」を引用符に入れたのは、それが常に行われている複雑な内面化のプロセスのメタファーだからである。私たちはこの内面化のプロセスを通して、一連の道徳的信念と政治的コミットメントとともに自分自身を受け入れ、同一化するのであり、これらの道徳的信念と政治的コミットメントを、私たちは自分の一部として人格化し、次いで人生の進み方を判断するための標準として(他の人々に)アピールするのである。


私たちは誰も、全くのゼロからスタートすることはできない──私たちはみな、既に文化的に用意されている善い人生の観念と格闘しているのである。私たちがその中に投げ入れられ、その只中に置かれているがゆえに巻き込まれている世界によって、私たちは今あるとおりに形成されているのである。したがって私たちに与えられた諸価値を、私たち自身のものになるように、掘り崩し、転換させていくプロセスは、一生をかけてのプロジェクトである。





ドゥルシラ・コーネル『自由のハートで』(情況出版)p.79-80

第一に重要なことは、自分の性に関わる存在を自己表象する権利においては、発言と行為、表現することと実現することの間に区別を設けても意味がないということである。性に関わる存在を自己表象することには、自分自身を性的ペルソナの”中で”、また性的ペルソナを”通して”表象することが含まれているが、そればかりではなく、性や家族の問題におけるその人の道徳的・感情的志向性を表現しうるような、その人の生き方を表明することも含まれている。


ある人の性に関わる存在を他の人々との結束や交際を通して実行に移す要求は、構造的に、宗教的問題に関する権利の保護とアナロジカルな関係にある。宗教的問題においても、良心だけに訴えかけるのではなく、その人の信念を実践に移すための空間が承認される権利が保護されねばならないのである。
歴史的には、良心のための空間の保護という政治的理想は宗教的自由の要求と切り離せないものであった。




『自由のハートで』 P.83

人格は、信仰を追及するなかで、自分に特有の決定を下し、自分のもっとも深い確信に従わなければならない──宗教的自由とはそのような意味に解釈されてきた。しかし、ほとんどの宗教において、信仰は私的に表現されるものではない、とコーネルは述べる。
「意味のある」宗教的自由とは何か。
それは、宗教の自由のためには、自己表象の権利が最大限に要求できなければならない。なぜならば、ある人格が一人でいる場合にしか祈りを捧げることが許されないならば、宗教的自由が守られているとはいえないし、ある宗教の成員が行う特定の実践を好まない他の人が、それが「面と向かって」おこなわれるのを拒否することが認められている場合にも、やはり宗教的自由が守られているとはいえないからだ。

同様に、個人の性に関わる存在を自己表象する権利は、最大値を要求する。ゲイやレズビアンであることを告知したり、そのためにエンパイア・ステート・ビルに看板を掲げたりする自由は、性に関わる存在を自己表象する権利を満たすものではない。
ゲイの男性の生には、たとえば、彼のセクシュアリティを生き抜く権利が明らかに含まれている。つまり、彼の愛人または愛人たちと平穏無事に公然と生活する権利、自ら望みさえすれば子を持てることに関わる権利が、含まれているのである。


性に関わる存在としての私たちの志向性を考えるとき、私たちは、誰と性交を行うのか、愛人たちとどんな種類の関係を持つのかといった、基本的な人格を規定する問いだけではなく、結婚するかもしれないという、答えがその人の人生にとって根本的であるような問いをも考慮することになる。




『自由のハートで』 P.84


自由のハートで

自由のハートで