HODGE'S PARROT

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「あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」



あらゆる音楽の中で僕が最も好きな作品の一つ、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『マタイ受難曲』より「憐れみ給え、わが神よ」。

Bach: Erbarme dich, mein Gott (Matthäuspassion) - Galou (Roth)


神が、死者を蘇らせることになっていながら、異端者たちを絶滅させないとあれば、大審問官自身が異端者たちを殺戮するだろう。大審問官は、実存すべきではない者たちを絶滅の火で焼き尽くす。処刑された者たちの骨を掘り出して焼いてふたたび殺し、その灰を風にまかせて散らす。


こうして大審問官は、神学の教える絶滅の仕事を完全に果たそうとする。神が、理解に苦しむ放心から、遂行を怠った仕事だ。異端者を殺し、そしてその死者の遺骨を殺し、さらにその遺骨の灰を殺す
事実性同様に頑固な生をもち、たえず自分自身の遺骸から生まれ変わる死者を殺し、殺し直し、無限に殺す……まさに、ここで繰り返して言うべきだろう。《殺さなければならない死者がいる。》そして、暴力に訴える者は、ただたんに死者を絶滅させるだけではなく、その町、その住居を破壊し尽くし、そしてさらに墓を襲う。暴力者は熱中して襲いかかり、そして町の亡霊は、バンフォーの幽霊が王の宴をさ迷ったように、廃墟のあいだをさ迷い続ける。


この無限の執拗さそれ自体が暴力の破壊と、超自然といつわる虚無化の欺瞞とを立証していないだろうか。──ことばの魔法、ことばによる暴力、行動をともなわない暴力は、血まみれの虐殺と放火が失敗したところでは、成功することはなかろう。魔法使いは、矛盾を弄して、臆面もなく、勝手に宣告する。
なされたことが、けっしてなされたことがない、と。つまり、取り消せないものが取り消された、と。





ウラディミール・ジャンケレヴィッチ『還らぬ時と郷愁』(仲澤紀雄 訳、国文社)p.327-328

[関連エントリー]



Frederic Chiu Bach-Chiu Erbarme Dich from St Matthew Passion


ナチズムの否認が戦後のヨーロッパの公共的正義の大きな柱になっている以上、「ハイデガーはナチか?」という問いは、哲学的判断ではなくまず社会的道徳的判断となる。そしてその審問のために、事実の記録や証言ばかりでなく哲学的著書の一部も動員される。つまり哲学の一部が社会的判断のための証拠として引き合いに出されるわけであるが、そこで判断がクロと出れば、その哲学全体が公共的正義の名のもとに断罪され排除されることになる。それがこの手の「社会的」審問の機能のしかたである。


だが、ハイデガーの場合には、その手続きの不当さを指摘し哲学的思考の自立を擁護することが、当人やその弟子たちの姿勢によって「政治的なもの」の掩蔽に寄与してきたということも事実である
そしてその掩蔽が逆に──ハイデガーの思考と「政治的なもの」との関係をこそ問おうとする困難な哲学的努力とは別に──この審問をますます執拗なものとする結果になってきた。





西谷修『不死のワンダーランド』(青土社) p.147-148

ここで避けなければならない誘惑は、「公然と自分の(人種差別的、反同性愛的)偏見を認めている敵の方が、人は実は密かに奉じていることを公には否定するという偽善的な態度よりも扱いやすい」という、かつての左翼的な考え方である。

この考え方は、外見を維持することのイデオロギー的・政治的意味を、致命的に過小評価している。外見は「単なる外見」ではない。それはそこに関係する人々の、実際の社会象徴的な位置に深い影響を及ぼす。人種差別的態度が、イデオロギー的・政治的言説の主流に許容されるような姿をとったとしたら、それは全体としてのイデオロギー的指導権争いの釣り合いを根底から変動させるだろう。


(中略)


今日、新しい人種差別や女性差別が台頭する中では、とるべき戦略はそのような言い方ができないようにすることであり、それで誰もが、そういう言い方に訴える人は、自動的に自分をおとしめることになる(この宇宙で、ファシズムについて肯定的にふれる人のように)。「アウシュヴィッツで実際に何人が死んだのか」とか「奴隷制のいい面」は何かとか「労働者の集団としての権利を削減する必要性」といったことは論じるべきでないことを強調しておこう。その立場は、ここでは非常にあっけらかんと「教条的」であり「テロリズム的」である。




スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』(松浦俊輔訳、青土社) p.49-50


還らぬ時と郷愁 (ポリロゴス叢書)

還らぬ時と郷愁 (ポリロゴス叢書)

不死のワンダーランド

不死のワンダーランド