HODGE'S PARROT

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ブーレーズを「歌う」ベジャール



Geheimagent さんのエントリーで紹介されている、モーリス・ベジャールによるピエール・ブーレーズ《ル・マルトー・サン・メートル(主なき槌)》のバレエですが……
これって笑っていいんだよね。《コッペリア》とか《くるみ割り人形》みたいに。(笑)(笑)(笑)……

で、ベジャールブーレーズについて語っている文章を思い出した。それによるとベジャールは、(やはり現代音楽に振り付けをした)ピエール・アンリとピエール・シェフェールの音楽に基づくバレエ《孤独な男のためのシンフォニー》の初演後、ドメーヌ・ミュジカルのコンサートで聴いた《ル・マルトー・サン・メートル》に衝撃を受け、夥しいイマージュと運動感を伴った感覚が押し寄せてきたのだという。作品の発見が、まず彼にとって、好きな楽曲をバレエ化する際の第一段階だ。

私はたんに楽譜を読んだだけでひとつの楽曲を聴けるほど熟達した音楽家ではないが、私にとって楽譜の読み取りとは楽曲を聴くさい不可欠な補足的手段である。そして第二段階で、(おそらく素朴で初歩的な)音楽的分析を試みることになる。『主のない槌』の場合、この作業に十四年を費やした。私は全く楽器を演奏しないので、旋律核を(調子外れに)歌うのだが、これが振り付け作業の際、役立つのである。


声とは、脚のように、ひとつの筋肉である。


スカラ座における『主のない槌』に合わせたバレエの初演の際、指揮をしていたブルーノ・マデルナのことを覚えているのだが、彼は記者会見でイタリアのジャーナリストたちに私を紹介しながらこう明言したのだった。
モーリス・ベジャール、彼は一日中ブーレーズの曲を歌っている、ちょうど諸君が『ラ・トラヴィアータ』を口ずさむようにね!」と。





モーリス・ベジャール「音楽を踊る」(彦江智弘 訳、青土社ユリイカ』1995年6月号) p.53


これって、ベジャールは、あの複雑精妙なブーレーズの音楽を、イタリア・オペラを聴くように──そしてアリアを歌うように──聴いて/歌っている、ということなのだろう。様々な音の中からメロディーを構成する音を選び取り、音楽の進行をリードしていく「主」(あるじ)の登場だ。

Boulez: Marteau Sans Maitre

Boulez: Marteau Sans Maitre



この「歌う」こと──複数の音の中から主従を峻別する操作──に関して、そういえばグレン・グールドの声もメロディー指向だったな、と思った。『Intoxicate』の平野啓一郎氏(H)と宮澤淳一氏(M)の対談でそのことに触れている。

H:宮澤さんとしては、(グールドの)鼻歌はどうなんでしょう? 僕はあまり好きじゃないんですけど。


M:まあ、別に、聴こえてもいいし、聴こえなくてもいい。聴こえれば、ああグールドがやっているな、って。何でしょうね、お札の透かしみたいなものかもしれない。


H:なるほど、あれだけ緻密に音楽のことを考えているけど、実際、ちょっとしたフレーズやニュアンスよりも、鼻歌のほうが音楽に与える影響がはるかに大きいような気がするんです。まあそれがいいっていうのは、ある意味では面白いと思うんですが。


M:あれがないとつまらないという人もいるし。本人は頭の中で〔音楽が〕鳴っていればそれでよかったのかもしれない。


H:鼻歌聴いていると、もう完全にホモフォニックな世界で、メロディを思いっきり歌っていて(笑)。メロディにしたがって手が動いているみたいで、彼の主張と全くずれているような。


M:僕は、よく言われるような「対位法的思考」ってものに関しては疑問に思っている。そんな表現をしたって意味がないと思うから使わない。複数の成分を演奏して操作していくとしても、ひとつのことを考えながら、ここはこうやってっていうのを瞬時に操作していくわけだよね。だから僕は鼻歌を歌っているっていうのは意味があることだと思う。思考過程の筋みたいなものかな。「対位法的〜」という表現は、結局は一種の洒落のようなものになってしまう。


H:ただ、彼自身がその主張をリードするところもあるでしょう。右手がメロディ、左手が伴奏みたいな作曲の仕方についてネガティブに語るように。




Intoxicate』OCTOBER 2007 VOL.70(タワーレコード) より p.15

グレングールド、音楽、精神

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