HODGE'S PARROT

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前衛の終焉と有袋類



久しぶりに(そう、ホントに久しぶりなのだが)シュトックハウゼンのCDをいくつか聴いていたところ、やはり彼の死は堪えるな、と思った。以前は笑いながら(苦笑しながら)聴いていた、電子音がガガガグググと鳴る《コンタクテ/Kontakte》やクァルテットにヘリコプター内で演奏させる《ヘリコプター弦楽四重奏曲》がなんだか妙に哀しく響いた──もう、こういったバカバカしいまでに壮大な「シリアスな音楽」を聴くことができないのだな、と。


Stockhausen -- Hymnen


Karlheinz Stockhausen "Helicopter String Quartet"




そんなことを思いながら、松平頼暁の「ブーレーズと日本」というテクストを読んだ。『ユリイカ』のピエール・ブーレーズ特集に掲載されたものだ。

前衛はモダニズムの究極点に当たっていた。プレモダン─モダン─ポストモダンという区分けは、たとえばポストモダンが従来の弁証法的なバトンタッチを拒否しようとするものであったとしても、ポストという呼び名が示す通り、元来は時系列的なものだ。


日本はプレモダンの時代に欧米先進国からモダニズムを移入した。そのモダニズムが終焉した、とされている今、ポストモダニズムを日本人は自前で賄えるものと信じ始めている。プレモダンと肩を組んで歩むポストモダンの登場だ。日本ではこの時系列は和・洋・和という場所の問題にすりかわる。
音楽において、日本に前衛が存在していた、と言えるかどうかは疑問だ。勿論、例外の存在までも否定するつもりはない。そして前衛「的」な作品は数多く作られた。しかし、それらはオーストラリアにいるオオカミやムササビに似た有袋類と似ている。前衛「的」な作品には、前衛作品のような、自然と対等なまでの冷徹な秩序への指向はない。




松平頼暁ブーレーズと日本」(青土社ユリイカ』1995年6月号より) p.55


松平氏の文章は、ある人が使った「前衛を知らない世代」という言い回しに違和感を覚えたことに端を発している。その表現には「前衛」は──例えばブーレーズルイジ・ノーノらの音楽は──ベートーヴェンらの「古典」に対し一時的な現象に過ぎないというテーゼが隠されているのではないか。
日本では、いわゆるブーレーズらの前衛音楽はコンサートのレパートリーとして定着しているとは言い難い「状況」にある。つまりそれらは「知られていない音楽」なのである。その点が、ヨーロッパと事情が異なる。だからこそフランスでパスカル・デュサパンのような作曲家が自分がいかにブーレーズクセナキスとは違うかを力説することの意味を(日本の作曲家は)理解できないのではないか──存在しないものを否定することは意味がないからだ──と松平氏は懸念する。