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ハズレなし! ドイツ現代小説は面白い



「私家版世界十大小説」を選んだり、ヘンリー・ジェイムズ『大使たち』が文庫化されたりと、ここのところ文学熱が再燃してきたので、その勢いに乗って(その熱気が冷めないうちに)いろいろと書いておこうと思う。

で、ドイツの小説について。ドイツ文学と言うと、ゲーテトーマス・マンギュンター・グラスといった文学者の名前がすぐに浮かぶのだが、もうすこし──なんというか──カジュアルに楽しめないかな、と思ったりする。古典はともかく、現代小説やエンターテイメントが翻訳されるのは、英米小説に完全に負けているし。
でも、だからこそ、邦訳されたドイツ小説は粒揃いの作品ばかりだ。なんといっても同時代の等身大のドイツの人々のライフスタイルを知ることができる。描かれたベルリンやミュンヘンはニューヨークやロスアンジェルスなどの都市とはどのように違い、また似ているのか。そこに暮らす人たちの考え方は?
とくに同学社(http://www.dogakusha.co.jp/)の叢書「新しいドイツの文学シリーズ」はそのセレクトの素晴らしさに加え、体裁も新書サイズなので手軽に気軽に読むことができる。


[同学社 新しいドイツの文学シリーズ]


パトリック・ズュースキント(パトリック・ジュースキント、Patrick Suskind)の『コントラバス』を読んだときの感動は今でも覚えている。そして今でも涙なしには読めない。人気作『香水』よりもずっと好きだ。

ぼくなんかだれが雇ってくれるもんですか。ドイツにはオールラウンドのバス弾きが二人、いや三人いましてね、その一人は某音楽事務所の専属、もう一人はベルリン・フィルの主席、三人目はウィーンのプロフェッサー。ぼくみたいな者に太刀打ちできるわけがありませんよ。
ドヴォルザークには実に素晴らしい五重奏曲があるっていうのになあ。ヤナーチェックにだってある。ベートーヴェンの八重奏曲も素晴らしいですよ。シューベルトの五重奏曲『鱒』だって。


そう、『鱒』なんか最高の作品ですよ。音楽的な意味でも、それを弾けば名人とみなされるという点からいっても、コントラバス奏者にとって夢の作品なんです。
シューベルト……でもそれをやるなんて先のこと、ずっとずっと遠い先のことです。ぼくなんかただの平のバス弾きにすぎませんからんね。そう、ぼくは第三プルトの要員なんです。第一プルトは主席奏者と次席が陣取り、第二プルトには中級の奏者たちが座ります。ぼくら平のバス弾きは彼らの後塵を拝するってわけです。第一プルト、第二プルト、第三プルトといっても、それは公務員の予算定員上の区別であって、ほんとうは腕前にはあまり関係がないんですけどね。
つまりオーケストラというのは、厳格な序列に従って組み立てられた組織だし、またそうじゃなきゃならないという点で、人間社会を忠実に映す鏡なんですよ。それもある特定の社会っていうじゃなくて、人間社会一般の鏡なんです。




パトリック・ズュースキント『コントラバス』(池田信雄, 山本直幸 訳、同学社) p.59-60

コントラバス (新しいドイツの文学シリーズ)

コントラバス (新しいドイツの文学シリーズ)

真面目に勤勉に、練習に励む、忍の一字となって。するとどこか地方の二流オケから主席バス弾きとしてこないかって声がかかる、小さな室内管弦楽団や八重奏団の仕事とか、レコードの仕事をこなしながら、ちょっぴりずつ名をあげて、絶えず謙虚にやってゆく。そうしてシューベルトの『鱒』が弾けるところまで円熟してゆくんです。──


シューベルトはぼくとおない年のとき、死んでからもう三年もたってました。

さて、七時半に始まるから、ほんとにそろそろ行かなくちゃ。もう一枚レコードをお聞かせします。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとコントラバスのための五重奏曲、イ長調。一八一九年。シュタイアの鉱山監督に頼まれて、二十二歳のシューベルトが書いたものです……




コントラバス』 p.106


演奏は、ズービン・メータ(!)がコントラバスダニエル・バレンボイムジャクリーヌ・デュ・プレ、イツァーク・パールマンピンカス・ズーカーマンという豪華なメンバーで。


Piano Quintet in A major "Trout" Fourth Movement






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他の作品も印象的な部分をざっと引用しておきたい。


ペーター・ハントケ/Peter Handke 『左ききの女』 (Die linkshandige Frau池田香代子 訳)

二人は眺め、食べ、飲んだ。子供は口笛を吹こうとしたが、寒すぎてうまくいかなかった。
「引き上げる前に写真を撮りましょ」
子供が不恰好な旧式のポラロイドカメラで女を写した。写真の女はかなり低いところから捉えられ、空を衝くように仰瞰されていた。梢すらほとんど写っていなかった。
女は驚いていった。
「子供はこんなふうに大人を見ているんだわ!」




p.124

左ききの女 (新しいドイツの文学シリーズ)

左ききの女 (新しいドイツの文学シリーズ)





ヴォルフガング・ケッペン/Wolfgang Koeppen 『ユーゲント』 (JUGEND、田尻三千夫 訳)

「ドイツ映画館」はわたしには神殿のように、この世で最も魅力的な場所、真理の厨子、大人たちの嫉妬からわたしには近づかせないでいるすべてを解きあかす秘密であると思われたのだから、テーセウスがわたしを連れて行こうとしたことは思いもかけぬ幸運、メルヒェンの行方を決する僥倖、わたしだけに指定された、二度と帰ってこない秘密開示のチャンスだった、わたしにはコッホ牧師の神学的知識はなかったにしても、これから知恵の樹の実を味わうことになるのだとの予感はあった。


テーセウスは母にいった、息子さんをどうか一緒に行かせてください、わたしは寂しいのです、今夜が最後の晩なのです、召集を受けたのですと、母は彼を見つめた、母が、目の前に立っている彼の姿が消えていくのを、身体が溶けて、すっかりもういなくなり、立っていた場所に空気が押し入るのを見たかどうか、わたしには分らない、空気は、彼が存在したことなど金輪際なかったみたいに、彼の場所を占拠した、かくして彼はわたしの手を握り、一緒に「ドイツ映画館」へと赴いたのだった。





p.119-120

ユーゲント (新しいドイツの文学シリーズ)

ユーゲント (新しいドイツの文学シリーズ)





クリストフ・ハイン/Christoph Hein 『龍の血を浴びて』 (Der Fremde Freund、藤本淳雄 訳)

個人が集まっての共同生活というのはあきらかに、まさしくこの個人のなかに何本か格子棒を要求するものだ。私たちの魂の暗い地下牢で、私たちはそのなかに、私たちの人間存在の薄い外皮を脅かすものを閉じ込めるのだ。私は日々、私を辱め傷つける大量の事件や感情を抑圧する。これらの抑圧なくしては、私は朝ベッドから起き上がる能力を持たないだろう。


私たちを混沌と分かつ格子。私たちの滑らかな肌がちょっと傷つけば血が溢れてくる。鼓動する心臓が露呈されているのを見れば、たいていの人間は気分が悪くなる。ごく機械的な動きをする、なんでもない中空の筋肉が、それを見る人に呼吸困難、噴き出る汗、嘔吐、失神を引き起こすのだ。
この同じ小さな肉と血との梱包がその前には──もっと人間らしく見える表面の裏にひっそりと隠れ、滑らかにしてくれる脂肪層とすべてをやわらげる表皮とで覆われて──私たちの意識のなかであのように高いランクを占め、私たちのもっとも美しい感情すべてのプリズムを受け持つ適役であったのに。私たちの実存の基底に沈殿しているあれこれが目に見えるようになったりしたら、私たちはどんなに怖いおもいをすることか。




p.123-124

龍の血を浴びて (新しいドイツの文学シリーズ)

龍の血を浴びて (新しいドイツの文学シリーズ)





ギュンター・デ・ブロイン/Gunter de Brun 『発掘』 (Markische Forshungen、保坂一夫 訳)

論文集『王政復古期のドイツ』成立の背後には、今日のヨーロッパの政治は、安全、安定、平和の三本柱によって支えられなければならないという確信があります。かかる政治的ヒューマニズムの伝統を探る途中で、私には、十九世紀の最長の平和時代にドイツの運命を規定していたさまざまの力が判って参りました。いわゆる王政復古時代、つまり、フランス革命とナポレオンによって呼び起こされ、ほぼ三十年に及んだ戦争の混乱の後の時代のことであります。


当時のヨーロッパの状況がさまざまな観点からしてもヒトラー戦争後の現代に類似していることは自明のことですが、しかし、当時も今日も健全な保守主義こと唯一の救済であるということを自ら認めているのは、ごくわずかな人だけです。当時はこうした力があり、革命とその結果登場してきた国民主義を貫いて、古きヨーロッパの理念を保持しておりました。それを一言で要約しますと、メッテルニヒであります。彼の紋章は今日の我々の紋章たるにふさわしいものです。一世紀半の歴史記述がメッテルニヒに投げかけた汚辱から彼を解放すること、それが私の本の眼目です。今日ノスタルジー的憧憬の的とされる時代、平安と庇護の時代、すなわちビーダーマイアーが彼のなしとげた業績でした。
彼の偉大さはこれまでプロイセン国民主義と進歩信仰とによって歪曲されてきました。我々にとってヒトラー戦争も、核による死と環境汚染も、形は違っても破壊である点では同じですから、我々はいまこそ、この真に平和的な王侯メッテルニヒの意味を再認識しうるのです。





p.190

発掘―文学史を愛する人々のために (『新しいドイツの文学』シリーズ (7))

発掘―文学史を愛する人々のために (『新しいドイツの文学』シリーズ (7))