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判断を誤ったのはパキスタンかアメリカか



パキスタンについては詳しくないので『FOREIGN AFFAIRS』に掲載されたダニエル・マーキーのインタビュー記事「なぜパキスタンタリバーン対策に乗り気ではないか」を読んでみた。


ダニエル・マーキー/ Daniel Markey は、米外交問題評議会Council on Foreign Relations、CFR)のインド、パキスタン、南アジア担当のシニア・フェローだ。

[CFR Bio: Daniel Markey]



9.11 テロ以降、パキスタンタリバーンとの協調路線を変更した。タリバーンアルカイダアフガニスタンとの国境地帯の部族地域に潜伏している。パキスタン政府は、この部族地域に直接踏み込むのではなく、政府の代理人が部族の長老を使って活動分子を締め出そうと画策した。これはイギリス植民地時代のやり方を踏襲したものだ。
しかしこの手法はあまり成果を上げなかった。部族長老が過激派の取り締まりにさほど関心を示さなかったからだ。そこでアメリカがパキスタン政府に対して対策の見直しを強く迫った。ムシャラク政権は部族地域への国軍の投入に踏み切った。だが、国軍が部族地域の住民の反発を買うようになってしまった。国軍による掃討作戦は逆効果だった(アメリカも同様の認識を示した)。こうして、若干の修正──部族地域の治安部隊を強化し、この部隊がテロリストや民兵を取り締まる、現地住民の反発を緩和させるため開発援助などを行う──を施して、再び政府の代理人と部族長の交渉という路線に戻った……ただし当面成果が期待できない、ワシントンは失望感を高めている……。

このような経過が、まず、ある。その上で……なぜパキスタンは判断を誤ったのか(なぜパキスタンは「成果」を上げられないか)との質問にマーキー氏は次のように応える。

パキスタンに言わせれば、判断を誤ったのはアメリカのほうだろう。「アメリカは1990年代初頭に冷戦が終結し、ソビエトの脅威が消失すると、不要になったパキスタンを切り捨てた」とパキスタン人は考えている。
アメリカが明確に反対したのにもかかわらず、パキスタンがあえて核開発計画を進めたのにも、こうした背景が関係している。少なくともアメリカは、核開発をしたパキスタンとはもう協力できないという立場をとり、パキスタンとの関係の多くを断ち切った。
90年代初めにパキスタンが購入したF16戦闘爆撃機の納入をアメリカが拒否したのも、こうした事情からだった。この事件はパキスタン軍全体に衝撃を与え、アメリカに対する不信感は一気に広がった。アメリカはさまざまな援助や協力を打ち切っただけではなく、共同での軍事演習も取りやめた。こうして、パキスタン軍の不信感はますます強まった。アメリカは外国人将校向けに行っている国際軍事教育訓練(IMET)プログラムからもパキスタン軍人を締め出した。


(中略)


地方に配備されているパキスタンの治安部隊は装備も貧弱で、自動小銃武装したアルカイダジープで走り去るのを、50年前の銃を抱えて見逃すしかない状況だ。




「なぜパキスタンタリバーン対策に乗り気ではないか」(『論座』2007年5月号、朝日新聞社) p.299


[International Military Education and Training (IMET)]




フォーリン・アフェアーズ 日本語版』のサイトでは、パキスタン元首相ベナジル・ブットによる「パキスタンを内側から救うには」を始め、いくつかのパキスタンに関する論文が公開されている。