HODGE'S PARROT

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「メシアンの美徳と悪徳」



オリヴィエ・メシアンのオルガン曲全集が Brilliant から出ていたので購入。8枚組のBOX SETだ。その「天上の饗宴」にどっぷりと耽っている。
演奏者は Willem Tanke で、以下のCDと同じ音源だと思う。

Complete Organ Works

Complete Organ Works


この壮麗な音響──神聖であり魔的である──を聴きながら、吉田秀和の「メシアンの美徳と悪徳」を読んだ。短いが、秀逸なメシアン論だ。
吉田氏は、メシアンの音楽に対するアンビヴァレントな思いを、まず表明する。「絶対的な魅力」があり、しかもそれが「吐き気を催す」のだ、と──ワーグナーの楽劇と同じように。美徳と悪徳は同じことでしかない。
メシアンには「普遍性の獲得についての燃えるような内的要求」がある。彼には「すべて」が必要なのである。芸術とは「すべて」がくりこみうる空間でなければならない。それが《総合芸術》を求めたワーグナーに共通する。

メシアンにとって、「全部」があることへの要求は、しかし「拡散」への必要から生まれたものではない。ここには中核がある。それは彼の「信仰」である。その信仰とは、まずカトリック(つまり普遍性と万有性の教旨)であり、ついでまたフランス的なものと呼んでいいのだろうが、それはまた、ミスティックで、ほとんど迷信すれすれにいたるものだといってもまちがいではないだろう。




メシアンの美徳と悪徳」(吉田秀和全集〈3〉「二十世紀の音楽」より、白水社)p.44


さらに吉田氏は、《世の終わりのための四重奏曲》における数字の《8》をめぐる「神学論めいた」作曲者のノートを引用し、「現代こういうことを書いても正気を疑われないためには、人はメシアンであることを必要とする」と、思っていてもなかなか言えないことを、非常に巧みな表現で──そして「穏当な」言い回しで、しかし的確に──指摘する。さすがホロヴィッツの初来日演奏会に際し、「ひびの入った骨董品」と評した人だと思う。

そして音楽史上重要な《音価と強度のモード》も、後の「全面的セリー」とは幾分異なった意味合いを持つものとして、メシアンならではの発想として、捉える。

……要するに、ここでは音の高さ(つまり音程)と音価(長さ)密度(強弱)それに音色(ピアノの打鍵のいろいろなやり方によって得られる次元での音の品質)という、およそ音楽をつくるうえでの《音》の基本的性格のすべての次元にわたって、完全にあらかじめ設定した図式によって、管理の手に加えられた作曲といってよいのだろう。




p.51

吉田秀和全集(3)二十世紀の音楽

吉田秀和全集(3)二十世紀の音楽




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