HODGE'S PARROT

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脱魔術化、操作する者、プロスペロー、そしてグリーナウェイ



『プロスペローの本』で思い出したのだが、 そういえば、ノルベルト・ボルツが『グーテンベルク銀河系の終焉』でヴィム・ヴェンダースピーター・グリーナウェイを比較しつつ、プロスペローこそがグーテンベルク銀河系の最初のメディアの名人(ヴィルトゥオーゾ)であり、したがってその物語をハイテクの条件のもとで繰り返すことにより、グリーナウェイ自身はエレクトロニクスの時代の最初のメディアの名人となる、と、なんだかやけに興奮気味な論を展開していた。

グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス)

グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス)


ボルツによれば、グリーナウェイは、映像の乱流から文字へと逆戻りすることなく、映像を文字として演出し、文学の映像としての造形力──ここちょっと?だが──を解き放つという。

ミシェル・フーコーの『幻想図書館』が技術によって実現される。「プロスペローの本」は世界知のアーカイブ、テッド・ネルソンがハイパーメディアの地球的効果として約束する、ハイパー図書館<ドキュバース>のバロック・モデルだ。
グリーナウェイシェークスピアのプロスペローは、映像のアーカイブの支配者だ。そのアーカイブにはバロックの集積された知が保存されている。これは、私たちポストモダンの時代の「情報過剰」の状況に正確に対応している。


ヴェンダースがロマンティックにメディア間の戦いの物語を創りあげ、本をデジタル映像の洪水に対する治癒力として持ち上げる一方で、「プロスペローの本」は、すでにハイパーメディアである。メディア間の戦いに代わって、メディア間のブラウジングが登場する。




ノルベルト・ボルツグーテンベルク銀河系の終焉 新しいコミュニケーションのすがた』(識名章喜+足立典子 訳、法政大学出版局) p.180-181


グリーナウェイが問題にしているのは「想像力の技術的な完成」だという。一方、ヴェンダースのような「ロマンティスト」が許しがたいこととして描き出すのが、脳という世界内空間に対する「技術の侵入」だ──メディア技術が人間の眼をバイパスすることだ。

脳は直接カメラの「眼」へと繋がれる。そこで人間に残されるものは、眼の痛みだけとなってしまう。
新しいメディア的条件のもとで人間の眼が痛む──このメッセージをヴェンダースは旅するもの、逃げまどう者、盲目の母のために映像を集める者の物語へと包み込む。手術は成功したが患者は死亡、というのがその物語だ。盲目の者を見えるようにする、という人間の傲慢は罰を受ける。母の眼を見えるようにしたイメージが母を殺すのだ。これを技術的な側面から見るとどうなるだろう?





グーテンベルク銀河系の終焉』 p.178-179


ボルツは述べる。ヴェンダースグリーナウェイも新しいメディア的条件下にある画家であることには変わりはない。が、ヴェンダースは「魔術的」な映画の画家であるにとどまる。グリーナウェイは、しかし、もはや「魔術師」ではない、と。

彼は操作する者──エレクトロニクスという道具を手にしたプロスペローなのだ。彼は意識的にシミュレーション技術で遊ぶ。ヴェンダースにとってはシミュレーションは不吉な予兆であり、彼は魔力を呼び寄せるロマン主義者の身振りをもってこれに対抗しようとした。
しかしグリーナウェイの芸人的な身振りは、タネをあかす手品師のものだ。シミュレーションやシミュラークルの技術を怖がる必要はない、と彼は示している。






グーテンベルク銀河系の終焉』 p.182