HODGE'S PARROT

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ディック・フランシス『度胸』




ディック・フランシス(Dick Francis)は僕の大好きな作家だ。そのリーダビリティ抜群のストーリーに興奮し、主人公のスタンスに大いに共感する。まさに──馬が合うのだ。
そして、英王室専属ジョッキーだった人物が描いた、競馬を舞台にしたミステリーは、まさに英国ならではのものだ。


『度胸』(Nerve)の主人公はロバート・フィン、26歳、障害競馬騎手。高名な音楽家一族に生まれながらも、しかし彼自身は音楽の才能に恵まれなかった。当然、家族に疎まれ、自らもそんな自分に引け目を感じ、鬱屈とした疎外感を味わっている。

私一人だけが異分子であった。両親のそれぞれの家系が賦与した豊かな才能が私には伝わらなかった。そのことは、私が四歳の時、オーボエイングリッシュ・ホルンの音が聞き分けられなくて、両親が悲痛な思いで認めざるをえなかった。初心者にはたいした差はないように思えるであろうが、たまたま父は世界的に有名なオーボエ奏者で、他のオーボエ奏者は父を基準にして判断されるのである。
また、音楽的な天分というものは、それが具わっている場合、他のいかなる先天的な能力よりもはるかに幼少の時から明白であり、モーツァルトが作曲を始めた三歳の頃の私は、協奏曲や交響曲よりも、ごみ集めの人夫がごみの罐をあけている音の方に関心をもっていた。


私が五歳になると、期待を裏切られた両親は、自分たちが間違って生んだ子供(私のために重要なアメリカ演奏旅行を中止しなければならなかった)に音楽的才能がないという事実をしぶしぶ認めた。音楽的才能がないというのは、両親の純粋な音楽的基準で判断してのことである。私は音痴ではないし、子供の頃、高揚するメロディに涙を催したこともあるが、父母のように、特定の音を特定の順序で並べることの結果に対して知的、感情的、技術的、精神的に完璧な理解をすることはできなかったし、いまもそうである。




『度胸』(菊池光 訳、ハヤカワ文庫)p.20


ロバートは、休暇の度にロンドンから田舎の農場に預けられた──両親の音楽旅行の足手まといになるからである。しかし、そこで、彼は乗馬を覚えた。馬が大好きになった。彼は両親の反対を押し切り、競馬の騎手になった。騎手といっても、レース一回につき10ポンドの騎乗料を受け取るだけの不安的な身分である。収入は配達トラックの運転手より少ない。ほんの一握りのスター騎手を除き、障害騎手の多くは、そのような待遇に甘んじているのだ。怪我と体重制限(節食)に苦しみながらも、それでも馬が好きだから……。

「レースに出場する機会さえ与えてもらえれば、私は絹服を着ていようと……パジャマを着ようと、観衆がいようといまいと、ぜんぜん気にしません。収入がふえようとふえまいと、落馬して骨を折ろうと、減量のために断食が必要であろうと、そんなことは問題ではない。私の念頭にあることはただ一つ、レースです……競う……そして、できれば勝ちたい」





『度胸』 p.74

Nerve

Nerve



そんな彼にも転機が訪れる。有力調教師からの騎乗依頼である。だが、謙虚さと「義理」は失しない。ストイックである。その「ストイックさ」が、フランシスの多くの登場人物に共通する、大きな魅力なのだ。

来週のいろんなレースに出る五頭が記してあった。馬名の横に負担重量と出走レースが記入してある。目をとおした。
「どうだ?」彼が言った。「乗れるかね?」
「四頭には乗れます」私が言った。「しかし、水曜日の未勝利馬レースには先約があります」
「大事な依頼かね? 断るわけにはいかないのか?」
断れる、と言いたかった。自分が手にしている一片の紙は、天国への招待状だ。彼の一頭を断れば、それに乗った騎手に将来の仕事をとられるかもしれない。
「それが……断れません。義理があるんです。初めて騎乗させてくれた農園主の馬なので……」
アレックスミンスターが下の歯をのぞかせてかすかに微笑した。「よし、それ以外の四頭に乗ってくれ」
「ありがとうございます。喜んで乗らせていただきます」




『度胸』 p.44-45

ロバートはスターダムにのし上がっていく……はずであった。が、転落する。転落させられる。陰謀が張り巡らされていたのである。彼以前にも、ある人物の巧妙な陰謀によって、自殺を始め、騎手たちが次々と破滅させられていた。ロバートの活躍を望まない人物がいる。ロバードを破滅させようとする人物がいる。ロバートは「敵」のターゲットにされていたのだ。

主人公ロバートは徹底的に痛めつけられる。「敵」は主人公に対し、最大限の恐怖の仕打ちを与えようと画策する──精神的にも(「度胸」を失った騎手という風評を流して)、肉体的にも(身体を不具にして二度と馬に乗れないように)。
ここがフランシスの読みどころだ。絶体絶命の窮地に落ち込みながらも、主人公が再起を賭け、それに打ち克つ。這い上がっていく。自分との戦い、そして敵に対する戦い=復讐。それがフランシスの小説のパターンであるともいえる。戦争や諜報戦がなくても「冒険小説」として読めること。これである。

ロバートは「復讐」を誓う。そして実行する。

……いいかね」間をおいて私がしめくくった。「きみが他人にさせた悲惨な思いを、そっくりそのままきみに経験させるのが正義というものだと私は信じているのだ」




『度胸』 p.301

有言実行。この復讐の苛烈なこと。蛇足ながら、イギリスの小説には、こういった「復讐」が多く描かれている。そして僕が英国の小説に惹かれるのも、そのためだ──それとも逆か。
例えば、ジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』には、ジョージ・スマイリーによる壮絶な頭脳戦=諜報戦が繰り広げられる一方、別の人物による「復讐」の物語が静かに通低している。最初と最後が復讐者のエピソードになっているということは、華麗なる情報戦は、実は、復讐のための装飾なのではないか、とすら思わせる。
ブライアン・フリーマントルの『消されかけた男』にしても、一見冴えない情報部員が、「復讐のため」に、知力を振り絞り、自ら所属する情報部を壊滅に至らせるのではなかったか。

アガサ・クリスティーの「クラシックな」探偵小説を思い浮かべてもよい。代表作『オリエント急行の殺人』で、何よりも僕が感動したのは、やはりその復讐の苛烈さである。根深さだ。身分も国籍も異なった人物たちが「復讐のために」集まる。『オリエント急行の殺人』の「真犯人」は、「殺されてしかるべき人物」を処刑したまでだ──何十箇所もナイフで刺すという壮絶な方法で。しかも探偵ポアロは、最後、その「復讐」を見逃したのではなかったか。
そして誰もいなくなった』でも同様に「殺されてしかるべき人物」が全員、処刑される。作者クリスティが「犯行」を完遂させたということは、彼女は、その処刑=復讐を支持していたということなのではないか。さらに舞台がインディアン島という「島」で起きているという事態に注意を向けたい。これがヨーロッパの島国である英国の縮図だとしたら……彼女はいったい何を意図しているのだろうか。
そのように考えると、名探偵ポアロはまるでクリスティに雇われた「外人傭兵」であり、イギリスに巣くう「罰されてしかるべき犯罪者」を一掃=復讐しているように思える。ミス・マープルに至っては自らを「復讐の女神」(Nemesis、義憤)と称し、ときに老体に鞭打ちながらも、「呵責のない復讐者」として果敢に犯人を追い詰める人物として描かれている。団体旅行に参加したり(『復讐の女神』)、海外へも出かけたり(『カリブ海の秘密』)。そういえば『鏡は横にひび割れて』も、自分の「行為」の重大さを認識するどころか、それを嬉々として、まるで自慢のように、「開き直り」かのように話す人物への「復讐」がテーマでなかったか。
さらに目を引くのが、クリスティが過去の、「回想の殺人」にまで解決を求めていることだ(『親指のうずき』『象は忘れない』)。「象は忘れない」というタイトルの通り──本来ならば、たとえ「人間」であっても──被害を受けた人物はその「被害」を絶対に忘れないのである。何よりも身体が「うずく」──疼いてしまうのだ。忘れたらおしまいだ。復讐を誓うということは、「忘れない」と同義である。復讐は成されなければならない。

血の気のない手を眺め、体中の苦痛のほかに手の血液循環が回復した時の激痛を考え、自分の良心から文明的なあらゆる制御が取り外されたことを感じた。彼によって引きずり下ろされた地位を回復するだけでは不十分だ。彼は、彼自身の手によって、私が自分のみならず他の騎手連中の復讐をも、物理的な手段によって徹底的に一片の良心の呵責をも感ずることなく実行するのに必要な、無慈悲な執念を叩きこんでくれたのである。




『度胸』 p.210


英国のミステリーを数多く読んできて、その魅力に取り付かれている僕にとって、そのようなメンタリティの影響を受けていないはずはない。

許すのには、長い時間がかかる。




『度胸』 p.313


ディック・フランシスに話を戻そう。ロバートは何とか「敵」の魔の手を逃れることができた。しかし「敵」の拷問によって身体はボロボロである。それでもレースに出場しなければならない。勝たなければならない。なぜならば、レースに出場することが、勝利を得ることが、一つの、大きな、敵に対する復讐であるからだ。

応急手当とアスピリンの服用でロバートはレースに望む。血を流しながらの騎乗である。相棒の馬はテンプレイト。六歳のせん馬(去勢馬)だ。

テンプレイトは目がきれいに澄み、耳をピンと立てている。走りたくてむずむずしているかのように筋肉がブルブルと動いている。完璧に調整された走る機械が、一刻も早く本来の仕事にかかりたくて緊張している感じである。おとなしい馬ではない。性質に甘さはまったくなく、愛情というよりは尊敬の念を抱かせる。私は彼の火のような激しさと勝利に対するゆるぎない意欲が好きであった。




『度胸』 p.239


場所はアスコット競馬場YouTube にアスコットでの障害競走(Steeplechase)の映像があったので参考までに貼っておく。

COMMERCIAL FIRST ASCOT CHASE 17/02/07 - MONET'S GARDEN*1

体にこたえるという点で、最初の三つの障害が最悪だった。四番目水濠を越える時、背中の薄皮のついた傷がまた口をあけ、テンプレイトの激しい意気込みを押さえるのに腕や肩がはりさけそうな気がした。手や手首に、手綱を通して非常な力がかかるものであることを初めて知った。
水濠を越えた時にまず感じたことは、安心であった。耐えられる。痛みを我慢し無視してレースに集中できる。


(中略)



テンプレイトに乗っていて味わう最高の喜びは、その計りしれない力を感じるところにある。彼の場合は、ありったけの技術を駆使して力をしぼりだし、慌てたり小細工を弄したり、他馬がとちることを願いながら走って、最後で力尽きてしまうというおそれはまったくない。彼は、騎手が思いのままにレースを展開するのに充分な余力を具えている。騎手としてこれ以上の喜びはない。


最後の障害に向かって走りながら、テンプレイトがいつもの調子で跳んでくれさえすれば必ずエメラルド*2に勝つ、と感じた。相手は一馬身先を疲労の色も見せずに走っているが、私はテンプレイトを押えていた。障害の十ヤード手前で手綱をあおった。ひと蹴り加え足でしめつけた。彼は白かばの枝の上を天使のようになめらかに、飛翔ともいうべき感じで跳んだ。



(中略)



気持ちを言葉で表現できない場合がある。今がそれであった。




『度胸』p.241-244

度胸 (ハヤカワ・ミステリ文庫 フ 1-5 競馬シリーズ)

度胸 (ハヤカワ・ミステリ文庫 フ 1-5 競馬シリーズ)

*1:-Ascot date for Monet's Garden [Telegraph]

*2:牝馬、今世紀最高の障害馬カースティンの再来と言われている。アイルランド