「神のごときミケランジェロ」という言葉どうり、芸術分野(音楽を除く、アート)において、僕にとってのネ申はミケランジェロに他ならない。
例えば、
Michelangelo (Masters of Italian Art)
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Michelangelo (Pegasus Library)
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- 作者: Stefanie Penck
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[Michelangelo]
- Michelangelo in the "A World History of Art"
- Michelangelo [Wikimedia Commons]
- List of works by Michelangelo [Wikipedia]
でもなんといっても『ダヴィデ』だな。
Michelangelo: Sculptor Painter Architect
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1513年にマキャヴェッリは有名な『君主論』を書いたが、その中で彼は、いつでも裏切りや寝返りを辞さない金目当ての傭兵を否定し、戦争にあたっては、「ダヴィデ」のような人物が必要だと述べている。
「ダヴィデはペリシテ人の扇動者ゴリアテと戦うことをサウル王に申し出た。サウル王は彼を激励するために自分の武具を身につけさせた。ダヴィデはそれをちょっと身につけてみたが、これは自分にはつかいこなせないといってすぐに辞退した。そして自分の投石器と短剣だけをもって敵に向かった。つまり他人の武器というものは、あなたの背中からずり落ちるか、重荷になるか、窮屈になるだけである」
ミケランジェロは、ドナテッロともヴェッロキョともちがい、いわゆる伝統に反してダヴィデを逞しいヘラクレスのように作り、なおかつそれをいかなる武具も身につけない全裸で表現した。手には短剣ももたず、ただ投石器のみをもっている。これはあきらかに、マキャヴェッリと同じ考えをもっていた証拠である。
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また、ダヴィデは右半分の体に重心を置き、右手が異常に巨大である。これは、サヴォナローラが『ダヴィデの詩編についての説教』のなかで、ヘブライ語のダヴィデという名前には「強き手」という意味があると語ったことからヒントを得ている。さらにダヴィデが左の方角を向き、執金剛神のように目を剝いてその方を凝視している。これまたあらゆる伝統にさからって、ミケランジェロは、まだ勝利していないダヴィデを、まだ敵を見ていない戦士をつくったのだ。
キリスト教徒の伝統では、右は正義の方向であり、左は悪の方向である。
YouTube にもダビデ像に関する映像がいくつかあった。その素晴らしさに感激し、驚喜し、興奮した。
DAVID BY MICHELANGELO
戦う以前のダヴィデは、きびしく左方を見ながら右手に石を握っている。この緊張した立てる姿は、すでに倒したゴリアテの首を踏みつけるダヴィデよりはるかに大きくゴリアテを意識している姿といってよいであろう。まだ勝つか負けるかわからないのである。イスラエル軍のサウルもこのダヴィデの力をはじめは侮っていた。
≪「あなたは行って、あのペリシテびとと戦うことはできない。あなたは年少だが彼は若いときからの軍人だからです」≫。ゴリアテは≪身の丈は六キュビト半。頭には青銅のかぶとを頂き、身にはうろことじのよろいを着ていた……≫豪傑である。
ミケランジェロは「勝利」するダヴィデよりも、大敵と対決する若い男性像の緊張感に重点をおき、その見えぬ大敵をも想像させているといえよう。
Michelangelo's David general idea
「神」は人間を己れの像に似せて創造し、自由を与えて、全き「愛」をもって「神」に向かい、神の「愛」に酬いることができるようにした。その意味において、人間の肉体を彫刻することが、「神」にこたえることであったのである。
しかし「神」はまさにその自由を与えることによって、人間達が「神」から離れうる可能性も与えた。「神」から離れた人間は、自分たちの自由と己れ自身を愛して、「神」に「愛」を返そうとしない。人間にとってこのかえさぬ「愛」の苦しみを切実に感得せしめるのがミケランジェロの作品である。その意味において彼は「キリスト教」芸術家である。
ミケランジェロの人物像には「神」を希求しながら、また「神」との似姿の中にその威厳を感じながらも、なお苦悩する人間の姿が存在するのである。人間が自由を感じ、充実を覚えながらも、次第に人間の肉体の滅ぶべき部分、欲望に悶える部分があるのに気づく。
「神」は「死」というものを与えたからだ。その世界の物質性を感じ、それとの闘いをむなしくつづけるのである。
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